「食品」の記事

「MS Nose」で新規事業創出を目指すニチレイ

阿久津良和のITビジネス超前線 第8回

「MS Nose」で新規事業創出を目指すニチレイ

2019.04.11

「おいしさ」へ科学的にアプローチするニチレイ

紆余曲折のプロジェクトが新規事業につながるまで

技術者の想いが会社を動かす基盤に

我々の生活に密着していながらも完全に解明されていないのが、食事中の「おいしさ」だ。一見すると舌体上の味蕾(みらい)で感じるものと思われるが、冷凍食品大手のニチレイ 技術戦略企画部 基盤技術グループ アシスタントリーダー 畠山潤氏は「『おいしさ』は味覚・聴覚・視覚・触覚・嗅覚(きゅうかく)で構成されるが、特に嗅覚が重要」と話す。その嗅覚を科学的に可視化する分析機器、「MS Nose(エムエスノーズ)」を通じて、ニチレイは新規事業の創出を目指している。

「MS Nose」と畠山氏

「おいしさ」の認識には香りが重要

我々は牛肉・豚肉・鶏肉の味の違いを認識しているはずだが、畠山氏は「視覚や嗅覚を抑制した状態で口に含んでも、その違いは分からない」と説明する。とある畜産分野で著名な研究者の報告によれば、通常の形態でも鶏肉以外は正解率が低く、ひき肉にしてしまえばすべての肉で正解率が降下。さらにスープ状ではすべての正解率が30%を切るという。人間は香りを含めた感覚を味として認識しているからこそ、嗅覚が重要な要素を占める。よく「風邪を引くと味が分からない」というが、この現象も同じ理由があるのだろう。

既存技術でも食品内の味や香りの成分そのものを分析することは可能だが、人が認識する感覚レベルの測定は難しかった。特に嗅覚による認識は、口内で食品をかみ砕き唾液(だえき)と混ざった後、揮発した空気が喉から鼻に抜ける際に初めて成り立つ。これはレトロネーザルアロマ(口中香)と呼ばれるものだが、読者諸氏も食事風景を思い返せばお分かりのとおり、温度変化や咀嚼(そしゃく)過程でレトロネーザルアロマは刻一刻と変化するため、定量化するのが不可能だった。

入社当初はチキンブイヨンの開発に携わり、香りの分析に従事していた畠山氏は、「既存技術による分析手法ではプロの料理人レベルの味に近づけない」という課題を抱えていた。その時に出会ったのが、英国ノッティンガム大学 食品科学科 フレーバーテクノロジー部門の名誉教授を務めるAndy Taylor氏である。2006年に「MS Nose」の発明者であるTaylor氏の論文を読み、タイミングよく訪日したTaylor氏に協力を仰いだ。Taylor氏はノッティンガム大学とのスピンアウト企業であるFlavometrixを設立し、レトロネーザルアロマの受託分析を事業として行っていた。2009年にはニチレイフーズとFlavometrixの間で研究パートナー契約が結ばれる。

レトロネーザルアロマを可視化する「MS Nose」

当時、MS Noseの装置はノッティンガム大学にしか存在していなかったため、畠山氏は2010年から約1年間、2011年の途中にも3カ月間、同大学へ出向くことになる。畠山氏はTaylor氏に「深い部分まで研究し、自分で分析したい」と伝え、MS Noseを借用する契約を取り付けた。当時のニチレイでは海外企業と共に研究開発するケースはまれだったが、「(畠山氏が在籍していたニチレイフーズには)協力的な上司がいて、研究開発部長を説得したら、次は社長、次は持ち株会社のニチレイ役員と話が進んだ。MS Noseの将来性をアピールするといった周りのサポートを受け、実現に至った」(畠山氏)と、スムーズに研究をスタートさせることができた。

研究方法を学んだ後、ニチレイの研究技術として取り込むか考えあぐねていた畠山氏だが、2012年ごろ、Taylor氏と英国マンチェスターにある企業との間で次世代型MS Noseの開発話が浮かび上がる。畠山氏は再びニチレイフーズの研究開発部長や社長の下に出向き、ニチレイは次世代機開発に参加することになった。しかし、当初開発された試作機では意図したとおりに動作しなかったという。「本来のMS Noseは水溶性の成分を分析する機械。そのためメーカーは香り分析に対応させる拡張を試みたが、うまくいかなかった」(畠山氏)。加えてTaylor氏と開発企業間のプロジェクトは頓挫し、英国企業側を頼ることが難しくなってしまった。ニチレイは、国内の小規模工場などをあたって独自拡張を行うことになり、MS Noseが国内で稼働するまでには、2012年12月導入から数えて3年後の2015年12月までかかってしまった。

ニチレイグループ 技術開発センターの一室に設置された「MS Nose」。黒い部分が同社の独自実装部分である

本格的に稼働可能になったMS Noseだが、ここに至るまで8年の月日が過ぎさってしまっている。2014年にニチレイフーズからニチレイへ移籍した畠山氏の元に、役員から「本プロジェクトは終わり」との声がかかり、畠山氏も品質保証部へ異動することとなる。それでも、冷凍倉庫内の分析センターで輸入した冷凍果汁の品質分析に従事する傍らで、畠山氏は空き時間を利用しながらMS Noseの研究開発に取り組んでいたという。畠山氏は「受託分析を請け負っていたが、私以外は数名の派遣社員しかおらず、手が回らなかった。それでも(MS Noseに関する)メディア取材などを通じて社内認知度が高まり、会社側もサポートスタッフを割り当ててくれた」と当時を振り返る。

MS Noseでは物質を構成する分子をイオン化して分子量を測定する質量分析法(Mass Spectrometry)を使う。約50回/秒の測定を通じて、呼気中の香気成分を分析する

MS Noseの実用化に取り組んだ技術者の思い

2018年5月に現在の部署に戻った畠山氏だが、MS Noseの導入・稼働へモチベーションを維持できた背景には、ニチレイが持つ企業文化が大きく影響している。「食品メーカーの根幹をなす『おいしさの定量化』に興味があった。(8年間の月日で)私なりの進捗があり、(畠山氏が所属する)技術戦略企画部は『10年後のニチレイに役立つ』研究を行っており、短期的な成果を求められていない」(畠山氏)。さらに「両親は札幌で理髪店を営んでいる。そのため『技術でお金をいただく』という姿勢に共感し、技術や知見で立脚する研究者を目指していた。入社時も『自分独自の技術を身に付けたい』という目標を持ったが、振り返るとMS Noseを通じて独自技術を蓄積できた感がある」(畠山氏)と振り返った。

Taylor氏はガムをかんだ時のレトロネーザルアロマの測定を行い、レトロネーザルアロマは20分以上継続しているのにもかかわらず、ミントフレーバーを認識するためには、甘味が大きく影響していることを立証。写真は同様の実験結果を畠山氏が再現したもの

ニチレイは「これまで弊社はおいしさとコストパフォーマンスの両立を実現してきたが、他方で食べる・作る楽しみは提供し切れていない。たとえば3Dフードプリンターで食品を作り出し、ロボティクスによる食品提供時は、従来と異なる調理方法や食材の組み合わせが求められる。その際は口内の変化を反映させた新しいレシピが必要になるが、そのデータベースは存在しない」(畠山氏)と、今後わき上がるであろう課題を提唱し、MS Noseを通じて既存事業の拡大および新規事業創出への取り組みを目指している。その一例が食のレコメンドサービス「conomeal(このみる)」。食の好みをデータベース化し、ユーザーの好みと気分を独自のアルゴリズムで掛け合わせたレシピを提案するアプリケーションを2020年にローンチする予定だ。

冷凍食品で著名なニチレイだが、低温物流や不動産、バイオサイエンスといった事業を展開していることはあまり知られていない。同社は第2次世界大戦中の1942年に当時の政府が設立した帝国水産統制株式会社を前身とし、終戦後は1945年12月に民間企業の日本冷蔵として、戦後の食糧危機を解決するために冷凍技術の研究・開発を続けてきた。1985年2月に社名を現在のニチレイに変更。2017年4月からは社内に「事業開発グループ」を設立し、新規事業創出を目指している。その基盤となるMS Noseが1人の技術者を通じて世に送り出されたことを我々は認識すべきだろう。

阿久津良和(Cactus)

日清が「完全栄養食」パスタ発売、多忙な現代人の「救世主」となるか

日清が「完全栄養食」パスタ発売、多忙な現代人の「救世主」となるか

2019.03.27

日清がパスタに1食分の栄養素を詰め込んだ新商品を発売

働き盛りの「栄養不足」にフォーカス

販路はネット限定、どこまで市場は広がるか

食事からバランス良く栄養を摂りたい…と考えていても、共働き世帯が増加し、働き方改革が叫ばれる労働環境の中で、それを実現するのは至難の業だ。

そんな社会情勢にあわせ、主食や飲料など手軽な形態で、1日に必要な栄養素を確保できるように作られた「完全栄養食」なるカテゴリが、にわかに注目を集めている。

これまではベンチャー企業の戦場だった「完全栄養食」に、即席麺の巨人・日清食品が参入。完全栄養食「All-in シリーズ」第1弾として、本日3月26日より「All-in PASTA」を発売した。

「All-in PASTA」のパッケージはかなりシンプル。メインターゲットの30代以上の働き盛り世代を狙ったと思われるカジュアルな仕上がりだ

チキンラーメンの正統進化? 21世紀型「簡便食」

日清食品の創業者・安藤百福が戦後の食糧難をきっかけに開発した「チキンラーメン」。もうすぐ最終回を迎えるNHK朝の連続テレビ小説「まんぷく」で広く知られることになった開発エピソードの21世紀版と言えるのが、この「All-in」シリーズ。1日に必要な栄養素の3分の1の量を、1食分の麺に配合しているのが特徴だ。

連続テレビ小説「まんぷく」にあやかったプレゼンテーション。チキンラーメンから60年を経て、変化した時代に合った「簡便栄養食」を提供するというコンセプトだ
「All-in PASTA」の試食販売は、チキンラーメン発売当時に初めて試食販売を実施した阪急うめだ本店(大阪府)で行う(3月27日~31日まで)

チキンラーメン開発当時と比べれば、現代は「空腹を満たすには困らない」時代と言える。その一方で、個々人が「必要な栄養を万全に摂取する」という意味では、困っている人の割合が多いと言えるだろう。

厚労省の調査によれば、栄養素の摂取が推奨量に届いていると考えられる年代は少なく、またビタミン・ミネラル含有量の多さから健康的な食事に欠かせない野菜類の摂取は、国民全体で不足傾向にある上、40代以下では慢性的に不足していることが分かっている。

野菜不足は若年層においてより深刻になっている

そして、日清の独自調査だが、働き盛りの年代で健康に気を配る人は9割にのぼる一方、それが実現できていると感じているのは調査数のうち半数を切る。健康意識の高さと裏腹に、忙しさからか栄養バランスの良い食生活を送れていないようだ。

同社はビジネスパーソンの代表として三菱商事、伊藤忠商事、LOHACOなどの協力を得て調査を実施。働く人の意識として、「健康な食生活を送りたいが実践できていない」という大意が読み取れたという

栄養豊富だけど「ふつう」に食べられる味を追求

そうしたニーズを汲んだことで広がりつつある「完全栄養食」。だが、栄養食品やサプリメントを心底「おいしい」と感じたことがある人は、あまりいないのではないだろうか? 筆者も、飲み込み損ねたサプリメントが舌の上に残ってしまい、何とも不快なえぐみと臭いに閉口した経験がある。

開発担当者である同社 ダイレクトマーケティング課 ブランドマネージャーの佐藤真有美氏によれば、栄養そのものの味は苦み、えぐみ、酸味、さらにざらついた舌触りなど、およそおいしさとはかけ離れた特徴を持っているという。

それを一般的な食材と遜色なく食べられるようにするため、同社はビタミン・ミネラルを麺の内側に封じ込める独自製法「栄養ホールドプレス製法」を編み出した。また、その上で麺の持つ雑味をマスキングするような味付けを開発。この製法により、加熱調理による栄養価の減衰を軽減することにもつながったとしている。

製法図。開発には約1年半を費やし、試作は300回を超えた。既存商品と比べても困難の多い道のりだった、と佐藤氏
コクのある「ボロネーゼ」、香りの良い「ジェノベーゼ」、酸味と旨みを併せ持った「スパイシーアラビアータ」の3種を、湯切り調理のカップ麺形式(1食税別600円)、麺(1食税別400円)とソース(2食入税別500円)を別売する一般的なパスタの形式で展開する

会見の途中で「ボロネーゼ」と「ジェノベーゼ」2種類の味の試食が配られたが、いずれも「良薬口に苦し」といったような、栄養素独特の風味は無かった。一般的なパスタと比べると小麦の含有量が少ないためか、ポロポロと切れやすいコシの少なさは気になった。

ボロネーゼ(左)とジェノベーゼ(右)を試食

とはいえ、黙って出されたら栄養食品のたぐいとはわからない仕上がりだ。個人的にはジェノベーゼソースの風味が気に入ったが、麺の食感をカバーするにはボロネーゼソースくらいの粘度や粒感があった方が、より「ふつうのパスタ」らしくなると思われる。

発売前の「All-in PASTA」を試食したビジネスパーソンからは、ランチ時の利用や社内購買への導入など、ビジネスのオンタイムにこそ使いやすいのでは、という意見が複数見られたという。インスタント麺として調理可能なことが、既存商品と比較した際の目立ったアドバンテージと言えそうだ。

ラーメンでなくパスタから出した理由

「All-in PASTA」の販路はオンラインに限定。日清食品グループのオンラインストア、および「アラビアータ」味の開発アイデア協力も行ったLOHACOで販売を行う。公式サイト上では、パスタソース以外の味付けを紹介するアレンジレシピを掲載。ちなみに、調理の方向性としては、酸味や醤油の風味が麺の雑味をマスキングするのに適しているとのことだった。

調理前後の栄養比較表。麺の中心に栄養素を入れ込むことで流出を抑え、スペックと実態の乖離を極力抑えた

ニーズの高まりがあると言っても、一般的なカテゴリになっているとは言いがたい「完全栄養食」。まずは流通コストが低いネット通販にて提供する。

また、今夏にはラーメン(汁なしそば)タイプの新商品も発売予定。トムヤムクン風、坦々麺風の開発中の試食が会見場で振る舞われた。いずれも発売時期にあわせたスパイシーさが共通で、酸味の効いたトムヤムクン、ゴマのコクが強い担々麺と性格が異なるフレーバーだ。

21世紀の「チキンラーメン」を彷彿とさせる売り出し方の同シリーズだが、スープありの麺は試作されなかったのだろうか? そう現場で佐藤氏に尋ねたところ、スープに麺の苦味が出てしまうため、まずは汁なしで成立するパスタから開発したということだった。今後、麺の改良、あるいは雑味をマスキング可能なスープの開発など方策の目処が立てば、汁ありタイプの商品化も可能性はあるという。

会見でプレゼンテーションを行った、日清食品 マーケティング部 藤野誠 部長(左)、同 ダイレクトマーケティング課 ブランドマネージャー 佐藤真有美

発展途上のカテゴリである「完全栄養食」だが、「All-in」シリーズの販売目標は2019年通して累計100万食を目標に掲げるなど、かなり強気の姿勢を見せた。それだけ、同社は簡便な栄養摂取に対するニーズの高まりを感じているのだろう。

働き盛りの人々を悩ます栄養不足。理想は当然ながら食材からの摂取ではあるものの、その理想と現実のギャップをうめるのには取り入れやすい新商品となっている。

その一方で、自社のネット販路主体でどこまで購入に結びつけられるか、また個人差の大きい食生活の中で、同商品による栄養の充足を実感する購入者がどの程度現れるか、というのは課題といえるだろう。

昨今はSNS経由の口コミが購買を大きく左右する。試食と口コミ、その相乗効果で受け入れられれば、より一層市場が拡大が加速するのではないだろうか。

「おいしさ」を感じるしくみ ~匂い、味、呼吸のマリアージュ~ 後編

「食べる」をつくる科学と心理 第2回

「おいしさ」を感じるしくみ ~匂い、味、呼吸のマリアージュ~ 後編

2019.03.26

立命館大・和田教授が「食」をテーマに連載

匂いは「負のマリアージュ」を起こすことも

化学要因だけでない、認知システムも”あじ”に影響

おいしいものを、おいしいと感じる。日々感じる「味」は、実は舌だけに頼る感覚ではないそうです。実験心理学から「食」をひもとく立命館大・和田教授が、自身のグルメ体験を糸口に、「味わいのキモ」を考えます。

前回は、私たちが日常生活で“あじ”として感じているものは、嗅覚、特に口腔からこみあげてくる匂いの影響を強く受けることを示した。今回はそれについてもう少し掘り下げたい。

著者は授業や講演でよく次のようなデモを行う。簡単なので、画面の前の方も実際にやってみていただければと思う。

まずは鼻を強くつまみ、鼻孔をふさいでもらう。そのまま、鼻から息を吐こうとしてみてほしい。この時、鼻孔から空気が漏れるようではいけない。そしてそのままの状態でチョコレートをひとかけら食べてほしい。そうすると、甘さとネチャネチャした感触こそすれ、チョコレート特有のリッチな風味がしない。そこで鼻をつまむのをやめると、たちどころに風味が拡がり、甘味も増したような感覚を覚えるはずだ。

匂い分子には2つの経路があり、鼻腔からの匂い分子の経路は「オルソネーザル経路」、口の奥からの経路は「レトロネーザル経路」という。この両経路からの匂いが食べ物や飲み物を強く特徴づけている。

匂い分子の二つの経路

このデモでは、チョコレートをチョコレートたらしめる特徴は嗅覚に依存していること、さらに味覚で感じるはずの甘味も匂いによって増強されることを簡便に実感してもらえると思う。鼻をふさぐとレトロネーザル経路からの匂い分子を含んだ空気が鼻腔に侵入できないが、ふたが取れた瞬間、呼気とともに香気成分が嗅覚受容体まで一斉にたどりつくのだ。

香気成分が引き起こした「負のマリアージュ」

口から鼻に抜けるレトロネーザル経路からの匂いが、食味に強く影響を与える理由については諸説ある。前回、ウニとホヤの例では、固形の食品を噛むことによって食品中の香気成分が表出し、食べ物をくんくん嗅いでも感じられなかった匂いが口中から生じる「フレーバーリリース」を紹介した。ここでは、オルソネーザル経路とレトロネーザル経路の香気のコントラストが感動的で、うま味や甘味を引き立てていた。

一方、オルソネーザル経路とレトロネーザル経路の香りのコントラストによって、平たく言えば「まずい」ことになる例もある。「魚介には白ワインが合う」というのは広く浸透しているが、裏を返すと赤ワインと魚介(特に生ものや魚卵)の組み合わせでひどい経験をした方が多い、ということだと思う。ところで、実は白ワインと魚介でもひどい経験となってしまう例がある。

国内ワイン大手のメルシャンは、ワインの鉄分が魚介の脂質の酸化を促し、不快な魚臭を発生させる”負のマリアージュ”のメカニズムを明らかにした。これは化学変化によってレトロネーザル経路とオルソネーザル経路の香気で著しい差が生じる極端な例だ。

口腔内でワインと魚介に含まれる物質によって生じた匂い分子がレトロネーザル経路から嗅粘膜にたどりつき、想像もつかないまずさを体験することになる。個人的な印象ではビールとひじき、生魚も相性が悪い気がするが、私だけだろうか? ちなみに、魚介とワインの負のマリアージュは油脂によって抑制される。つまり調理法にも依存するのだ。何が何でもワインと魚介は相性が悪い、というわけではない。

唾液と香気成分の化学変化があるのではないか、という話もしばしば聞くが、ワインと魚介のような劇的な変化が、ほかの食品でどの程度起きているかは、私は確信を持てない。例えば、ジュースなど飲料全てに関して、オルソとレトロでの香気成分の差がどの程度生じ、どの程度それが主観的な経験に影響力を持つのだろうか? 今後精査してほしい課題である。

近年、両経路の感じ方が違う、すなわち両者で香気成分が違うはず、という錦の御旗のもとで、レトロの香気成分とオルソの香気成分の差を測定し、食品開発に活かそうとする試みがなされている。口腔内での温度変化や香気成分の凝集性なども関係しそうだ。

認知システムも両経路からの香りの感じ方に影響を与える

これまでは化学・物理的な要因による、オルソネーザル経路とレトロネーザル経路の香気成分が異なることによる効果の違いについてみてきた。ここでは、人間の認知システムも食における嗅覚と味覚の相互作用に影響を与えることを示したい。

先ほど、チョコレートの例でレトロネーザル経路からの匂いは味覚強度にも影響を与えることを述べた。オルソネーザル経路からバニラの匂いを感じるように工夫したカップで真水を飲むと、甘味の呈味物質も香気も舌に触れていないのに、ほのかに甘く感じる。

つまり、レトロネーザル経路からだけでなく、オルソネーザル経路からの匂いでも知覚される味覚強度の増強は生じるのだ。昔は香気成分が味覚の受容体を刺激するのではないかともいわれていたが、我が国の産業技術総合研究所のグループが、舌に香気成分が触れない場合でも味覚に影響を与えることを示した。これにより、味嗅覚の統合された知覚は受容体ではなく、中枢神経、すなわち脳で生じていることが示された。

こう見ると、香気成分が同等であれば経路の違いがないようにもみえるが、両経路からの食品の匂いに対する脳活動を計測し、その違いを見出したドイツの研究グループは嗅粘膜の前方と後方に配置されている受容体の処理が異なるのではないか、という仮説を示している。

昨年、私の研究グループは、呼吸に伴う両経路からの匂いと味覚刺激の時間順序が日常経験と同じであることが、嗅覚による味覚促進にとって重要であることを示し、Scientific Reports誌上で発表した。呼吸という運動感覚との連動も味嗅覚による味わいに係わるということだ。これらの複数の要因が重なり合って、複雑な食品の風味が形成されるのだろう。

実験に用いた嗅覚ディスプレイを装着した著者

食品のおいしさと匂いの関係は非常に密接で複雑である。自分の好きな食品の“あじ”はどれくらい匂いの影響が強いのか、たまには鼻をつまんで試してみるのも一興かと思う。