「テクノロジー」の記事

発売後6週で1500万本を突破 -『ファイア ワンデイ ブラック』に見るキリンの「ものづくり」

発売後6週で1500万本を突破 -『ファイア ワンデイ ブラック』に見るキリンの「ものづくり」

2019.06.11

「ペットボトルコーヒー人気」に乗るキリン

『ファイア ワンデイ ブラック』開発にAIを活用したワケ

商品開発秘話から見えた、キリンのものづくりへのこだわり

ビジネスマンの仕事のお伴ともいえる、コーヒー。

最近は、コンビニで買えるカウンターコーヒーや缶コーヒー、ボトル缶にチルドカップ……などなど、さまざまな種類のコーヒーが販売されています。そんな中、2017年に登場したサントリーの『クラフトボス』によって人気に火が付いたのが、ペットボトルコーヒーです。

コンビニのコーヒーの棚にはペットボトルコーヒーが多く並ぶ

クラフトボスが発売されてからというもの、コンビニのコーヒー飲料の棚は様変わりしています。これまで缶コーヒーやボトル缶コーヒーが置いてあった場所には、今や当たり前のようにペットボトルコーヒーが置かれるようになっています。

そんなペットボトルコーヒーの棚に最近新たに加わったのが、キリンビバレッジの『ファイア ワンデイ ブラック』。4月2日に発売された同商品は、発売から6週間で1,500万本を突破したそう(5月13日時点)。なおこの数は、当初予定の2倍を上回るペースで推移しているそうで、同社は7月より追加CMを打ち出すとも発表しています

『ファイア ワンデイ ブラック』。何気なく飲んでいたこの商品の開発には結構な苦労があったようです

好調な滑り出しをみせる『ファイア ワンデイ ブラック』。キリンビバレッジはこのコーヒーの開発に、AIロボットを活用したのだとか。

飲料の商品開発と言えば、そこには人ならではの「味覚」が重要視されるところだと思いますが、そこにAIはどう関わっているのでしょうか。同製品の商品開発担当者に話を聞いてみると、その開発の軌跡からは同社の「ものづくり」へのこだわりが見えてきました。

キリン マーケティング本部 マーケティング部 ブランド担当 主任 山中進氏

人間の「味覚」がわかるAIロボットを使用?

――よろしくお願いします。『ファイア ワンデイ ブラック』、非常に好調ですね。この商品の開発には、AIロボットが利用されたと聞いたのですが、具体的には、どういった用途で利用したのでしょう?

山中進氏(以下、山中):当社が利用したのは、慶應大学発ベンチャーAISSYが提供する味覚センサー「レオ」というもので、これによって、人間の味覚にフォーカスした分析を行いました。具体的には、時間経過に伴う「酸味」と「苦味」の強度変化を分析し、それを数値化しました。

味覚センサー「レオ」。AI技術を用いてヒトの味覚を再現するセンサーであり、味蕾の代わりをするセンサー部分で食品サンプルから電気信号を測定し、独自のニューラルネットワーク(人工的な知能の実現)を通し、5つの基本味を定量的な数値データとして出力する (参考:AISSY社HP)

――時間が経って、常温になっても美味しい、というのが『ファイア ワンデイ ブラック』のセールスポイントでもあります。そこを実際に数値で示したというわけですね

山中:そうですね。もともとこの商品を開発するにあたって、「1日のお伴になるもの」というコンセプトを用意していました。そのため人の味覚だけではなく、客観的なデータでこの商品の良さを伝えたい、と思い味覚センサーを利用することにしました。分析した結果、常温になったのちにも、味覚の変化は人が気づかないほどのものであることが証明され、我々としても安堵したのを覚えています(笑)。

『ファイア ワンデイ ブラック』のキャッチコピーは「常温でもうまい。」

「600ml」という絶妙な容量になったワケ

――600mlと大容量なこともあり、時間が経っても味が大きく変わらない、というのは魅力的ですよね。ペットボトル飲料といえば、500mlが主流のような気もします。このサイズに決めたのは、どういった理由からだったのでしょう?

左がキリン・トロピカーナ(500ml)、右が『ファイア ワンデイ ブラック』(600ml)。ペットボトル飲料のスタンダードである500mlよりも大容量のコーヒーは、まさに「1日のお伴」となりそうだ

山中:理由は大きく2つあり、1つは「ちびだら飲み需要」に応えるため、もう1つはお客様の声と実用性を加味した結果、600mlが適切だと判断したためです。

そもそもペットボトルコーヒー市場は、2017年に他社商品(『クラフトボス』)がヒットしたことを契機に各社が追随して、一気に拡大しました。この市場で重要視されるのが、「ちびだら飲み需要」だと言われています。今、仕事をしながらデスクにペットボトルコーヒーを置いて、ちびちびと飲むという人は多くいらっしゃいます。

フタの開閉も可能で、さらには万が一倒してしまっても、パソコンや資料を汚さずに済む、というのがペットボトルコーヒーの特徴であり、お客様には「長い時間をかけて飲むもの」が求められていると考えました。朝、職場に行く前にコンビニで購入し、それを仕事が終わるまでゆっくりと飲む。そんなユースケースを想定し、「1日飲み続けても満足してもらえるコーヒーってなんだろう?」と考え、実際にお客様への調査を実施しました。

すると、「500mlだとちょっと足りない」「700mlほどであっても飲みたい」などという声が挙がってきました。しかし、単に容量が大きいだけでは、重くなる、カバンの中でかさばってしまう……など、利便性に欠けます。こうした議論を重ねた末、600mlがちょうどいいだろうと考え、このサイズに決定しました。

先行優位性よりも「誇れる1本」を目指した

――『ファイア ワンデイ ブラック』は、プロモーションにマツコ・デラックスさんを採用しています。マツコさんはこのCMで、「美味しいだけじゃダメ」「美味しくって多くなくっちゃ」というセリフと共に、「なんで今までこれをやらなかったの、キリンは!」とも言っています。なぜ他社に遅れてのタイミングでのリリースになったのでしょう?

キリンはCMにマツコ・デラックスさんを起用した (画像はYoutubeより)

山中:実は、これまで当社でもペットボトルコーヒーは何度か出していたんです。もちろんペットボトルコーヒーの需要が増加したタイミングで、早急に商品を市場に出したい、という想いもありました。しかし、急いで自信のない商品を出したところで、お客様に受け入れてもらえないことには意味がありません。

そこで、まずはこれまでに出してきた商品の反省や、競合が追随して出した商品の売れ行きの状況などを踏まえつつ、商品開発にあたりました。そうして2017年の秋頃に「大容量」「常温でも美味しい」といったコンセプトが決定し、同年末から中身づくりに着手し、そこから約1年半でリリースするに至りました。

2012年に発売した「キリン ファイア ネオ ストレート<ブラック・無糖>」(左)と「キリン ファイア ネオ スマートモーニング」(右)
2013年に発売した「キリン ファイア カフェデリ」シリーズ。(画像はサニーオレンジ・ラテ)

――コンセプトが決定してから、商品ができてリリースするまでには結構時間がかかったんですね。てっきり、取材前には「AIでちょちょいと商品開発したんじゃないか」なんて思ってしまっていたのですが……

山中:先程お伝えした味覚センサー「レオ」を使ったのは、約1000本の試作を重ねて、そこから「これならいけるぞ」と決めた1本に対してだけです。中身開発のほとんどは、人の手で行いました。

――1000本ですか……。そこまで試作品を作ってできた商品だったんですね

山中:開発には本当に苦労しました(笑)。

これはあくまで個人的な見解ではありますが、こうした商品開発の過程には、当社の「ものづくり」の精神が表れているように思います。

少し話は変わりますが、「キリン」と言えば『一番搾り』を筆頭に、「ビールの会社」というイメージを持っている方も多いと思います。私は担当ではないのでそこまで難しい話はできませんが、ビールを作るには温度や湿度など、非常に細かな環境条件が重要になってきます。

2016年にスタートした、『47都道府県の一番搾り』プロジェクトを覚えている方も多いかと思いますが、これは“その土地の風土で楽しめる味わいを表現したビールを発売する”というものでした。

当社では、そうしたプロジェクトにも見られるように、多くのお客様に喜んでもらえるような商品を、人の手で作ってきました。だからこそ、ものづくりへ強いこだわりを持っている社員も多いです。

ビールって、工業的なイメージがあるかもしれませんが、本当は、多くの人の手が関わっているんです。そしてそれはもちろん、『ファイア ワンデイ ブラック』にも。本当は、この商品の中身を作った担当にも、話を聞いて欲しいと思うくらい、本当に悩みながら作ったんですよ。

2016年に期間限定で発売したキリンビールの「47都道府県の一番搾り」。地域ごとに、「その土地の風土で楽しめる味わいはなにか」を表現した特別なビール。(現在は製造を終了しております)

***

「『ファイア ワンデイ ブラック』の商品開発にはAIが利用されている」と聞き、てっきり「AIがスマートに開発した商品」なんじゃないかと思って話を聞いたところ、まだまだ商品開発には人の手が大きく関っているようでした。

そして、「ものづくり」へのこだわりを持って作った商品の良さを、AIが証明する。開発担当者にとっては、人の味覚という不確かなものだけでなく、AIが客観的なデータにして表すことで、1つの自信につながるそう。さらに、営業担当者にとってもそれは、お客様に良さを伝える際の良き説得材料になっているのだとか。

取材開始時に頂戴し、ちびだら飲みしていたコーヒーは、取材の帰り際、すっかり常温になってしまっても、美味しく飲めました。我々が何の気なしに飲んでいるほかのさまざまな飲料にも、開発者のいろんな想いがこもっているのでしょうね。

キリンの中には、『ファイア ワンデイ ブラック』の模型も用意されていました
働く人の「気持ち」を見える化する、パナソニックの働き方改革<br />

働く人の「気持ち」を見える化する、パナソニックの働き方改革

2019.05.31

パナソニックが働き方改革を支援する新サービスを発表

ノートPCのフロントカメラで働く人の「気持ち」を見える化

「働き方改革関連法」の施行や来たる東京五輪が成長を後押し

パナソニックが働き方改革を支援する新サービスを発表した。ノートPCのフロントカメラを用いて、働く人の「気持ち」を見える化できるという。

働き方改革支援サービスに「気持ちの見える化」を追加

日本企業の働き方改革が本格化する中、単に労働時間を減らすだけでなく「会社の成長」との両立を訴えるのがパナソニックだ。その中で、独自の技術で「気持ち」を見える化する狙いはどこにあるのだろうか。

働き方改革では「会社の成長」との両立が重要

2019年4月、時間外労働の上限規制などを含む「働き方改革関連法」が大企業向けに施行され、中小企業でも2020年4月から始まるなど、働き方改革がビジネスの現場に本格導入されつつある。

さらに2020年の東京五輪では、首都圏で交通機関の混雑が予想される。そこに向けて、在宅勤務やテレワークなど、働く場所を拘束しないワークスタイルに向けた動きが加速するというのがパナソニックの見立てだ。

そこで同社は2018年、パソコンの使用状況を見える化するサービスを発表した。「1日の半分以上をメールの送受信に使っていた」など仕事時間の内訳を可視化することで、時間配分の最適化や余った時間での価値創造を狙いとする。すでに1万3000台のパソコンで稼働しているという。

働いた時間を見える化する「しごとコンパス」。「申告と実績」の差も明らかになる

4月に追加した新機能では、PCの実使用時間を各企業の勤怠管理システムと比べることで、申告と実績の差異が分かるようになった。これまで勤務時間とは認められにくかったグレーな作業時間をカウントするのが狙いだ。

パナソニック社内での導入事例

こうしたツールを投入する狙いとして、単に労働時間や残業時間を短縮して従業員の健康を守るだけでなく、働き方改革を成功させるには「会社の成長」を両立させることが重要であるとパナソニックは主張している。

「会社の成長」との両立を主張する

しかし、労働時間を短くすればその分だけ業績が落ちるのではないか、との懸念を持つ企業はまだまだ多い。そこで技術による裏付けに基づき、「働き方改革を導入すれば、会社は成長できる」という道筋を示すことが、普及に向けた近道というわけだ。

カメラを用いた非接触センシング技術を活用

今回、パナソニックが新サービスとして発表した「きもちスキャン」は、従来の働き方改革支援サービスに追加できる月額制のオプションサービスだ。

具体的には、パナソニックのノートPC「Let's note」のフロントカメラで撮影した顔の映像を、独自のバイタルセンシング技術で解析することで、従業員の「元気度」を見える化するサービスになる。

フロントカメラで顔をスキャン。測定は2分程度で終わる

常にカメラに顔を監視されるわけではなく、測定は2分程度で終わる。外光など環境に左右される恐れはあり、マスクなどは外しておく必要がある。Let's noteの対象機種は限られるが、今後拡大していくという。

仕組みはこうだ。血管の容量変化から脈拍レベルを推定する技術を応用し、カメラの映像を独自技術でノイズ処理し、脈拍レベルを取り出す。毎日、同じくらいの時間に測定した記録を蓄積していくことで、気持ちの変化が分かるようになるという。

顔の映像をノイズ処理し、活動量を推定する

発表会には日本疲労学会の小泉淳一氏が登壇。電極を用いて従業員の自律神経活動レベルを測定し、疲労を推計した事例を示し、「これを非接触で測定できるのは大きな進歩だ」と評価した。

企業内での活用として、部門内で10人以上が導入している場合、管理職は個人を特定しない形で従業員のデータを閲覧できる。部門内での活動量の変化を見ていくことで、有給の取得を促すなどの対策ができるという。

技術的な背景には、パナソニック独自の「非接触バイタルセンシング技術」がある。同社はこれまで国内外の展示会などで積極的にアピールしており、専用のセンサーではなく一般的なカメラで人間の感情を把握できれば、オフィスだけでなくスポーツや医療分野など応用範囲は広い。

非接触バイタルセンシング技術。CES 2019のパナソニックブースにも出展した

働き方改革の本格化に伴い、労働時間の短縮や生産性の向上をうたうさまざまな製品やサービスが登場している。その中でパナソニックの強みは、独自のセンシング技術によりテクノロジーの力で働き方改革を後押しできることにありそうだ。

「MS Nose」で新規事業創出を目指すニチレイ

阿久津良和のITビジネス超前線 第8回

「MS Nose」で新規事業創出を目指すニチレイ

2019.04.11

「おいしさ」へ科学的にアプローチするニチレイ

紆余曲折のプロジェクトが新規事業につながるまで

技術者の想いが会社を動かす基盤に

我々の生活に密着していながらも完全に解明されていないのが、食事中の「おいしさ」だ。一見すると舌体上の味蕾(みらい)で感じるものと思われるが、冷凍食品大手のニチレイ 技術戦略企画部 基盤技術グループ アシスタントリーダー 畠山潤氏は「『おいしさ』は味覚・聴覚・視覚・触覚・嗅覚(きゅうかく)で構成されるが、特に嗅覚が重要」と話す。その嗅覚を科学的に可視化する分析機器、「MS Nose(エムエスノーズ)」を通じて、ニチレイは新規事業の創出を目指している。

「MS Nose」と畠山氏

「おいしさ」の認識には香りが重要

我々は牛肉・豚肉・鶏肉の味の違いを認識しているはずだが、畠山氏は「視覚や嗅覚を抑制した状態で口に含んでも、その違いは分からない」と説明する。とある畜産分野で著名な研究者の報告によれば、通常の形態でも鶏肉以外は正解率が低く、ひき肉にしてしまえばすべての肉で正解率が降下。さらにスープ状ではすべての正解率が30%を切るという。人間は香りを含めた感覚を味として認識しているからこそ、嗅覚が重要な要素を占める。よく「風邪を引くと味が分からない」というが、この現象も同じ理由があるのだろう。

既存技術でも食品内の味や香りの成分そのものを分析することは可能だが、人が認識する感覚レベルの測定は難しかった。特に嗅覚による認識は、口内で食品をかみ砕き唾液(だえき)と混ざった後、揮発した空気が喉から鼻に抜ける際に初めて成り立つ。これはレトロネーザルアロマ(口中香)と呼ばれるものだが、読者諸氏も食事風景を思い返せばお分かりのとおり、温度変化や咀嚼(そしゃく)過程でレトロネーザルアロマは刻一刻と変化するため、定量化するのが不可能だった。

入社当初はチキンブイヨンの開発に携わり、香りの分析に従事していた畠山氏は、「既存技術による分析手法ではプロの料理人レベルの味に近づけない」という課題を抱えていた。その時に出会ったのが、英国ノッティンガム大学 食品科学科 フレーバーテクノロジー部門の名誉教授を務めるAndy Taylor氏である。2006年に「MS Nose」の発明者であるTaylor氏の論文を読み、タイミングよく訪日したTaylor氏に協力を仰いだ。Taylor氏はノッティンガム大学とのスピンアウト企業であるFlavometrixを設立し、レトロネーザルアロマの受託分析を事業として行っていた。2009年にはニチレイフーズとFlavometrixの間で研究パートナー契約が結ばれる。

レトロネーザルアロマを可視化する「MS Nose」

当時、MS Noseの装置はノッティンガム大学にしか存在していなかったため、畠山氏は2010年から約1年間、2011年の途中にも3カ月間、同大学へ出向くことになる。畠山氏はTaylor氏に「深い部分まで研究し、自分で分析したい」と伝え、MS Noseを借用する契約を取り付けた。当時のニチレイでは海外企業と共に研究開発するケースはまれだったが、「(畠山氏が在籍していたニチレイフーズには)協力的な上司がいて、研究開発部長を説得したら、次は社長、次は持ち株会社のニチレイ役員と話が進んだ。MS Noseの将来性をアピールするといった周りのサポートを受け、実現に至った」(畠山氏)と、スムーズに研究をスタートさせることができた。

研究方法を学んだ後、ニチレイの研究技術として取り込むか考えあぐねていた畠山氏だが、2012年ごろ、Taylor氏と英国マンチェスターにある企業との間で次世代型MS Noseの開発話が浮かび上がる。畠山氏は再びニチレイフーズの研究開発部長や社長の下に出向き、ニチレイは次世代機開発に参加することになった。しかし、当初開発された試作機では意図したとおりに動作しなかったという。「本来のMS Noseは水溶性の成分を分析する機械。そのためメーカーは香り分析に対応させる拡張を試みたが、うまくいかなかった」(畠山氏)。加えてTaylor氏と開発企業間のプロジェクトは頓挫し、英国企業側を頼ることが難しくなってしまった。ニチレイは、国内の小規模工場などをあたって独自拡張を行うことになり、MS Noseが国内で稼働するまでには、2012年12月導入から数えて3年後の2015年12月までかかってしまった。

ニチレイグループ 技術開発センターの一室に設置された「MS Nose」。黒い部分が同社の独自実装部分である

本格的に稼働可能になったMS Noseだが、ここに至るまで8年の月日が過ぎさってしまっている。2014年にニチレイフーズからニチレイへ移籍した畠山氏の元に、役員から「本プロジェクトは終わり」との声がかかり、畠山氏も品質保証部へ異動することとなる。それでも、冷凍倉庫内の分析センターで輸入した冷凍果汁の品質分析に従事する傍らで、畠山氏は空き時間を利用しながらMS Noseの研究開発に取り組んでいたという。畠山氏は「受託分析を請け負っていたが、私以外は数名の派遣社員しかおらず、手が回らなかった。それでも(MS Noseに関する)メディア取材などを通じて社内認知度が高まり、会社側もサポートスタッフを割り当ててくれた」と当時を振り返る。

MS Noseでは物質を構成する分子をイオン化して分子量を測定する質量分析法(Mass Spectrometry)を使う。約50回/秒の測定を通じて、呼気中の香気成分を分析する

MS Noseの実用化に取り組んだ技術者の思い

2018年5月に現在の部署に戻った畠山氏だが、MS Noseの導入・稼働へモチベーションを維持できた背景には、ニチレイが持つ企業文化が大きく影響している。「食品メーカーの根幹をなす『おいしさの定量化』に興味があった。(8年間の月日で)私なりの進捗があり、(畠山氏が所属する)技術戦略企画部は『10年後のニチレイに役立つ』研究を行っており、短期的な成果を求められていない」(畠山氏)。さらに「両親は札幌で理髪店を営んでいる。そのため『技術でお金をいただく』という姿勢に共感し、技術や知見で立脚する研究者を目指していた。入社時も『自分独自の技術を身に付けたい』という目標を持ったが、振り返るとMS Noseを通じて独自技術を蓄積できた感がある」(畠山氏)と振り返った。

Taylor氏はガムをかんだ時のレトロネーザルアロマの測定を行い、レトロネーザルアロマは20分以上継続しているのにもかかわらず、ミントフレーバーを認識するためには、甘味が大きく影響していることを立証。写真は同様の実験結果を畠山氏が再現したもの

ニチレイは「これまで弊社はおいしさとコストパフォーマンスの両立を実現してきたが、他方で食べる・作る楽しみは提供し切れていない。たとえば3Dフードプリンターで食品を作り出し、ロボティクスによる食品提供時は、従来と異なる調理方法や食材の組み合わせが求められる。その際は口内の変化を反映させた新しいレシピが必要になるが、そのデータベースは存在しない」(畠山氏)と、今後わき上がるであろう課題を提唱し、MS Noseを通じて既存事業の拡大および新規事業創出への取り組みを目指している。その一例が食のレコメンドサービス「conomeal(このみる)」。食の好みをデータベース化し、ユーザーの好みと気分を独自のアルゴリズムで掛け合わせたレシピを提案するアプリケーションを2020年にローンチする予定だ。

冷凍食品で著名なニチレイだが、低温物流や不動産、バイオサイエンスといった事業を展開していることはあまり知られていない。同社は第2次世界大戦中の1942年に当時の政府が設立した帝国水産統制株式会社を前身とし、終戦後は1945年12月に民間企業の日本冷蔵として、戦後の食糧危機を解決するために冷凍技術の研究・開発を続けてきた。1985年2月に社名を現在のニチレイに変更。2017年4月からは社内に「事業開発グループ」を設立し、新規事業創出を目指している。その基盤となるMS Noseが1人の技術者を通じて世に送り出されたことを我々は認識すべきだろう。

阿久津良和(Cactus)