「カルチャー」の記事

米津玄師『Lemon』の「ウェッ」に寄せて

藤田朋宏の必殺仕分け人 第5回

米津玄師『Lemon』の「ウェッ」に寄せて

2019.04.26

米津玄師「Lemon」の大ヒットに見た、時代の転換点

「自己表現」できるのは、芸術や音楽には限らない

仕事にも、自分なりの「ウェッ」がぜったいに必要

今更、一年以上前にリリースされたヒット曲の話で恐縮なのだが、平成が終わり令和が始まる今だからこそどうしても書いておきたい話がある。

この10年ほど国民的ヒット曲が生まれてこなかった中で、2018年の3月にリリースされた米津玄師さんのLemonは、久しぶりに年代を問わず「この曲なんか良いね」と受け入れられ、多くの人が口ずさんだ曲だった。

この曲、聴けば聴くほど(プロはすぐにわかるのでしょうが)、ありとあらゆる側面から考え抜かれた曲であることがわかる。こんな音楽理論を手玉に取るような技工を凝らしたとんでもない曲を、なんだか耳馴染みのよい大ヒット曲にまとめ上げる米津氏の才能は本当に凄まじい。

――などと小難しい感想を述べたが、当記事で言及したいのは、曲中にさし込まれている「ウェッ」についてである。

日本国民が考えた「ウェッ」の必要性

私だけでなく多くの人が、最初は「なんだこれ?」「このウェッはいらねーだろ」と感じると思うのだが、Lemonを聴けば聴くほど、この曲と歌詞には「ウェッ」が必須であり、すべての「ウェッ」が不規則に、でも、考えつくされたポイントにだけ入っていることがわかる。

ググってみると音楽理論からこの「ウェッ」の必然性を解説してくれている人もいて、なるほど、そういう理屈なのかと感心させてもらえるのだが、米津氏当人はこの「ウェッ」に関しては、「頭の中で鳴っていたのだからしょうがない」と語っていたらしい。

この「ウェッ」が、理屈で考え抜いた上での「ウェッ」なのか、天才であるがゆえの「ウェッ」なのかなんてことを議論してはいけないと思うし、もし「ウェッ」がなかったらLemonはこんなにヒットしたのかという議論にも意味はないだろう。

ただ、来る日も来る日も作曲で頭がいっぱいの天才が、Lemonという曲には「ウェッ」が必要だと思った。それで十分なのだ。

その結果、凡人が、あとからあらゆる角度でこうして「ウェッ」について想いを馳せる機会を与えてもらったのだから、ただそれだけで幸せな話だと私は考えている。ウェッ。

芸術も音楽も仕事も、どれもが「自己表現」だ

ところで、このLemonという曲「ウェッ」だけでなく、和音のとり方からいろいろなところで、一般的な音楽理論から外れているらしい。予定調和のコード進行から意図的に外したコード進行が、この曲の不安感や情緒感、何度も聴きたくなるスピード感を生んでいるのは、音楽理論がよくわからない素人でもなんとなくわかる。

作曲に限らず、あらゆるハイレベルな芸術作品とは、中世から組み立てられた理論体系を踏まえた上で、その理論体系をどう超え、そこに一味加えるかを楽しむものなのだと私は思っている。

まれに何も知らない天才が現れて、素晴らしい作品を遺す場合もあるが、論理体系を学ばない天才は、数多くの作品は残せない。本物の天才とは、過去から現在、そして未来へと続く文脈を踏まえた上で、「今、生きている自分をどう表現するか」を考え、かつ生活の何もかもを捨てるほどに執着して、作品を遺す人たちなのだと思う。

だが、はたしてこれは芸術作品だけの話だろうか。きっと読者のみなさんがしている日々の仕事にも、どこかに自分自身を表現する余地は残っているはずだ。

私がいつも考えているのは、実は多くの仕事には芸術作品的要素があり、仕事を通じて自分を表現する方法はたくさんあるということだ。ましてや私が日々携わっている、スタートアップ・ベンチャーの立ち上げなんて、「個人の存在の証明」という動機なしでは成功し得ないものだと確信している。

がんじがらめの社会を作り出した「平成」

平成の30年間は、さまざまな分野で組み上げられてきた理論体系を踏まえた上で、そこからはみ出し、自己表現しようとする人間を排除することが「正義」とされてきた時代だったように感じる。

他人が作った「モノサシ」に自分を合わせ、その意味を考えることなく自分を枠にはめることで、立派な会社に就職でき、出世し、家族を養い、幸せな人生を送れる――。そんな人をせっせと増やしてきたのが平成という時代だったのではないだろうか。また、そういった価値観で過ごしてきた人たちからすると、一般的な理論体系から少しでも外れて自己表現しようとする人の努力は「絶対悪」として認識されてしまう。

もし、そういったタイプの上司を持ち、自分の作品に良かれと思って「ウェッ」を足そうものなら、作品だけでなく、人格まで否定されて組織から排除される。読者の方にも心当たりのある話だと思う。

自分の人生を形作ってきた価値観を脅かすような輩がいたら、徹底的に排除する。そうすることになんの躊躇いもないのは、誰かが作ったモノサシに自分を合わせ続けてきた彼らの自我を保つために仕方のないことなのだろう。

社会を円滑に回すには、そんな真面目で立派な人も一定の割合で必要だろう。また、その多くの人がいい人なのだとも思う。しかし、そんな人ばかりに社会の実権を握らせるだけでなく、「その価値観こそが正義である」という社会すら形成してしまったのが、平成という時代だったように感じるのだ。

令和は「ウェッ」を入れることが許される時代になるか

私自身はそういったタイプの人の存在も認めている。たとえ経済的に落ち目であっても、平和で安全で素敵な国を作ってきた仲間としてリスペクトもしている。

しかし、スタートアップ企業の立ち上げを通じて、日本だけでなく世界に新しい価値観を展開することに人生を捧げている立場からすると、通り一辺倒の理論体系に判断のすべてを押し込めようとする価値観を一方的に強要されたり、「どちらのモノサシが正しいか」といった議論することは、時間の無駄でしかない。

理論から外れることを良しとしない価値観の延長線上には「ウェッ」というアイデアは決して生まれないのだ。

私は、自分の仕事にも自分なりの「ウェッ」を織り込んでいきたいと日々努力・奮闘しているが、表面上の理論体系に外れているというだけの理由で「ウェッ」を取り去ろうとする価値観の人に、「ウェッ」の必要性を論理的に説明するのは自分の美学に反する。そもそも、そんな時間は人生の無駄遣いだとさえ思う。

平成という時代は、社会全体が効率化を求める時代であり、常に単一のモノサシだけで測られる感覚が窮屈で仕方なかった。この時代の最後に、多くの人が「不必要なのでは?」と感じる「ウェッ」が入った曲が大ヒットしたという事実は、間もなく始まる「令和」の時代が、より自己表現をしやすくなる時代になる兆しなのではないかなどと期待している。

私も社会の中で徐々に年長者の立場になってきている。令和の時代は、一人ひとりの「ウェッ」を、社会の中で表現しようと奮闘している人達の努力が、ポジティブに受け止められる時代になるように、少しでも貢献したい。

米津玄師『Lemon』の「ウェッ」に寄せて

(文・イラスト=藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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増える「育児文具」とワンオペ育児の隠れた関係

文具ソムリエール・菅未里の「新しいコンパス」 第3回

増える「育児文具」とワンオペ育児の隠れた関係

2019.03.28

「育児文具」が増えている。

昨年には、学研ステイフルの「kazokutte」やクツワの「metete」(ミテテ、と読む)など、いくつか育児のための文具ブランドが生まれた。どのブランドも、知育を意識した製品を送り出している。

お父さんは無視?

そういうブランドのひとつから開発の様子を伺ったことがあるのだが、いわく、部署をまたいで子持ちのお母さん社員たちによるチームを作り、その意見を参考に製品を作っているという。

なるほど、今なお育児や家事をするのはお母さんであるケースが多いらしいので、適切な人選ではある。総務省の2017年の調査によると、6歳未満の子がいる共働き夫婦における妻の週あたり家事関連時間は6時間5分だが、夫のそれは1時間22分しかない。共働き夫婦でさえこの格差なのだから、専業主婦の家庭では、育児はほぼ完全に妻の仕事になるだろう。

だが、「お父さん」はどこに行ったのか?

主に育児・家事を担う専業主婦だって休日は必要だから、子供を夫に預けて出かけることはあるはずだ。そんなとき、お父さんの手元に残るアイテムが、お母さんだけを意識して作ったものだったら? お母さんから意見を聞いて作った育児文具が、お父さんにとって使いやすいとは限らないはずだ。デザインだって、共用できるものであるかは分からない。

きっとお父さんは困惑するに違いない。育児に苦手意識を持ってしまうかもしれない。

現に、育児グッズの使い方が分からないお父さんが、いちいちお母さんに電話をして質問するケースも見聞きした。これではお互い気が休まらないだろう。

育児文具は素晴らしいものだが、お母さんだけを意識して作ってしまうと、結果的にお父さんを育児から遠ざけ、いわゆる「ワンオペ育児」に拍車をかけてしまわないか、懸念している。

筆記具メーカーパイロットから発売されている「スタイルチョイス03 マルチポーチ」。シンプルな見た目で収納力が高いことから「お父さんバッグ」と呼んでいます(中身は筆者の義兄が実際に子育てで使っているもの)。母親のバッグを都度借りるのではなく、父親専用を作っておくと「引き継ぎ」トラブルなく育児で協力できます

育児文具は、親も育てる

ところで、育児文具とはどんなものかというと、子供が将来身に着けなければいけないこと、たとえば片付け、作文、時間管理などについて、文房具を通して身に着けるものが多い。子供たちは、育児文具を通して能力を身に着けていくのだ。

ならば、「親を育てる文房具」があってはいけない理由はない。育児に苦手意識がある親が、気楽に子育てができるようスキルアップを身に着ける文房具。そんな「育児文具」があってもいいだろう。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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