給食「完食指導」は適者生存の虐待か? 子どもへの悪影響に賛否

カレー沢薫の時流漂流 第44回

給食「完食指導」は適者生存の虐待か? 子どもへの悪影響に賛否

2019.05.27

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第44回は、子供のトラウマ「完食指導」問題について

給食の完食指導が問題になっている。

「お残しは許しまへんで!」

アニメ『忍たま乱太郎』に出てくる食堂のおばちゃんの有名な決めセリフである。

彼女はそのセリフの通り、それを破る者には烈火の如く怒り、時には一週間食事抜き、掃除をさせる等の罰も辞さないという、「食事を残す者を地獄の業火で焼く人物」として描かれている。

あくまでフィクションであるし、何せ彼女が飯を与えているのは忍者の卵である、今後おそらく山田風太郎の世界で活躍しなければいけない面々だ。適切に調理された食堂の飯が食えないようではやっていけるはずがない。

しかし、忍たま乱太郎の世界ではあれが適切としても、将来、忍にならない子ども相手にそれをやるのは問題なのではという声が挙がっている。

令和になっても残ってしまったトラウマ給食

石でも甘辛くしてもらえれば食える、という偏食のない人間には無縁な話だろうが、そうでない者には「給食のトラウマ」の一つや二つあるのではないだろうか。

一番多いのは「完食するまで帰れま10」だ。これが表題にもなっている「完食指導」である。食べきるまで昼休みに入らせなかったり、居残りをさせたりというものだが、中には「食べ物を無理やり口に詰め込まれて嘔吐」というストロングスタイルの指導を受けた者もいる。

ここまでなら、まだ個の問題だが「みんなが食べきるまで全員昼休みに入らせない」という、齢10にもいかない内から連座制の厳しさを叩きこむ学校もあるようだ。

これらは全て、トラウマとして残る。私でさえ、保育園の時、とりあえず口には入れたが長考したのち「やはり無理」と吐いたほうれん草の白和えのポップなビジュアルを未だ覚えているぐらいなので、無理やり口に入れられた人が忘れるわけがない。

漫画家の清野とおる先生も保育園の時、カワイイ女の子が無理やり嫌いなものを食べさせられ嘔吐したのがトラウマになっていると書いていたので、当事者でなくても同胞が目の前で嘔吐するというのは恐怖なのである。

その結果、傷を負い、登校拒否になったり体調不良を起こしたりする児童がおり、またこの経験から大人になっても「人と食事をするのが怖い」と感じる人もいるという。

そういった強制的完食指導に意味があるかというと、私はないと思う。なぜなら、未だにほうれん草の白和えが嫌いだし、義実家での食卓で姑が「今日の推し」と言わない限りは食わない気がするからだ。無理やり食わされても、大人なのでさすがに嘔吐はしないと思うが、代わりに耳あたりから出てくると思う。

このようにアレルギーでなくても「生理的に無理」な食べ物は存在する。生理的に無理な人の指が口の中に入ってくるところを想像して欲しい。「無理」としか言いようがないだろう。そのレベルでダメなものを飲みこませることが、人間にとってプラスになるとは思えない。

しかし、そこを慮りすぎて「好きな物しか食べない人間」になるのも問題である。「大して好きじゃない物」や「苦手な物」程度なら「感情を無にして食える」練習をしておいた方が、社会に出た時や義実家などでトラブルが起こりづらいのも確かである。

食育に力を入れている小学校では、生徒個人に合わせて最初から食べる量を増減させたり、または無理やり食べさせるのではなく、生徒自身が「今日俺ニンジン食っちゃうよ?」という気になるような給食環境づくりに取り組んだりしているという。

食事は「楽しい」ことが一番

昭和のトラウマランチタイムをサバイヴしてきた人間からすると、これらのやり方は「スイート」に感じられるかもしれない。

しかし、上記の食育に力を入れている学校の校長曰く「食事が楽しくなくなるのが一番ダメ」だそうだ。確かに、食事以外に楽しいことが一つもない、という人間は私含め大勢いるし、今の子どもの65%ぐらいはそういう大人になるはずである。(当社調べ)

そんな65%の唯一の楽しみを子どものころから奪うというのは、虐待と言っても過言ではないし、何のために生まれて来たのかさえわからなくなってしまう。

ちなみに私には90歳になる祖母がいるのだが、そのババア殿は一時期、シュークリームのクリームとジュースしか飲まないという、妖精みたいな生活を送っていたが、普通に生きている。何故なら、そのジュースが妖精になった老人用に作られたメチャクチャ栄養があるジュースだからである。このように、昔だと食事=適切な栄養を取る行為であったが、最近では食事からじゃなくても栄養はとれるようになってしまった。

ならば、食事をただの生命維持活動ではなく、「楽しみ」として重視していくのも自然の流れなのかもしれない。

もちろん、作ってくれた人への感謝など、倫理的なことを言えばやはり、偏食なく、出された物は何でも食えた方が良い。

よって、偏食が多い人も「これだけ嫌いなものがあるから出すな」「嫌いなものを食べさせようとするのはハラスメント」と己の権利を主張するだけでは、協調性がないと取られてしまう。

自分で作る、1人で食う、食事会でも自分が幹事をやって店を選ぶ、など嫌いな物を食べず、なおかつ周りにも不快感を与えない方法を考えていくべきだろう。この方法で、私は1年中300日ペペロソチーノだけを食い続けたが、特にトラブルはなかった。

と言いたいが夫に「くさい」と言われたので、自分の食を楽しみつつ、周りに迷惑をかけないのは、なかなか大変ことなのである。

大津の園児死亡事故で炎上した「マスコミ」批判

カレー沢薫の時流漂流 第43回

大津の園児死亡事故で炎上した「マスコミ」批判

2019.05.20

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第43回は、大津の痛ましい事故で炎上した「マスコミ」問題について

滋賀県・大津市で散歩中の園児の列に軽乗用車が突っ込み、園児二名死亡、多くの負傷者を出す、という事故が起った。

池袋のプリウス事故の衝撃が冷めやらぬまま、また痛ましい事故が起ってしまった。池袋の事故では「高齢者の自動車運転問題」「上級国民疑惑」が大きく注目されたが、今回の事故では全く別のものが炎上した。

マスコミ問題である。

マスコミが保育園を追求したのは視聴者のため?

事件が起こった当日夕方、被害者の園児が通っていた「レイモンド淡海保育園」が記者会見を行ったのだが、そこで質問をした記者の血が青とか紫とかほとんど寒色系じゃないかと、大きく批判された。

記者会見が、どのような内容だったかというと「危険な場所という認識はあったのか?」「保育士が道路側にいたのか?」という、何としてでも保育園側に批があったようにしたくてたまらない質問、「園児たちの様子は普段と変わらなかったのか?」という意図のわからない質問、 「散歩したのは園に庭がないからか?」という「園に庭さえあればこんなことには…」という「ニ兆円さえあれば」に匹敵する、壮大なたられば論などが挙げられ、質問を受けた園長は号泣、それを記者がバッシャバッシャ撮影するという地獄絵図だったそうだ。

記者会見を見た多くの人が「何を食ったらそんな質問ができるんだ」と思っただろうが、この記者会見は、たまたまその場にプラスチックを食って育った選りすぐりのサイコパッシャーが大集結してしまったという、悪い意味でのアベンジャーズだったワケではないと思う。

記者が何故あのような質問をしたかというと、決して趣味ではなく、おそらく「視聴者の見たい画」「聞きたい言葉」を引き出そうとした結果なのではないか。もちろん「あんなもの見たくなかった」という人が大半だと思う。

しかし、池袋プリウス事故で加害者が即逮捕されないことが大きく批判されたことからも、現在の我々視聴者に「悪が一刻も早く、俺たちの目に見える形で処されるところが見たい」という「ニーズ」が少なからずあることが分かっているのだ。

つまり「お客様に一秒でも早く悪が吊るされる様をお届けします!」というニーズに応えようとする企業努力が、「悪くもない保育園をとりあえず悪にして即斬る」という、完全に間違った「悪・即・斬」になってしまったのではないだろうか。

「マスゴミ」問題は視聴者の問題?

しかし、「被害者側への無配慮な取材はいらん」というのも、今回の件だけではなく、視聴者側が何度も言い続けている「ニーズ」である。

何故それが無視されてこのような会見が行われるかというと、被害者の声まではいらなくても、やはり我々が平素「センセーショナル」な物を求めてしまっているからではないだろうか。よって記者たちは「とにかく刺激的なものを撮ってこい」と言われ続け、感覚がマヒし、本来配慮が必要なはずの取材にすら「センセーショナルさ第一」で臨んでしまい、まるで不倫記者会見のようなノリの質問が飛ぶことになってしまったのではないだろうか。

やはり報道というのは「視聴者が何を見たがっているか」が反映されるものだ、需要がなければ供給はなくなる。このような記者会見が行われなくするためには、何度でも我々が「こういうのはいらんのや、見んし、お前らの雑誌買わんわ」と言い続けるしかないだろう。

ところで、「質問をした記者を特定して処してやろう」という動きも当然のように起こったらしい。やはり我々の「悪を処したい」「処されるのを見たい」という気持ちは根深い物があるのだ。

ちなみに、今回の事故では当初、車を運転していた52歳と62歳の2人が逮捕された。「また高齢者か」という声も上がったが、この年齢で高齢者と呼べるかは微妙なところだ。結局「車を運転する以上誰でも事故を起こす可能性がある」ということである。

車を運転しない人は「歩道を歩いていて車が突っ込んでくるなんてどうしようもない」という被害者観点から絶望したと思うが、車を運転する人は加害者観点でも恐怖したと思う。

もちろん安全運転に越したことはないが、人間には「限界」と「不測の事態」があることでおなじみである。持病もないのに運転中に突然何らかの発作が起こる可能性だってあるのだ。「どうしようもないこと」で被害者になることもあるが、加害者になることもあるのである。

つまり、車がないと生活できない土地で、私が週一ぐらいしか外出せず、引きこもり続けているのは、近隣住民の命を守る草の根活動でもあるのだ。しかし、それは無職だからできる事業なので、多くの人が、少なからずリスクを負って車を運転しなければいけない。

そのリスクを減らすには、運転者が気をつけることはもちろんだが、何せ限界がある。つまり、人間がこれ以上、進化することなく、むしろ高齢化で退化する一方だとしたら、無機物の方を整備していくしかない。

事故が起りにくい道路作り、そして車だ。

現に、車の事故防止機能はどんどん進化しており、自動運転化の開発も進んでいるという。自動運転が本当に安全なのか不安もあるが、少なくとも老が運転するよりは確実に安全になるだろう。

しかし、今のところそういった事故防止機能がついた車を買うか否かは、任意である。そして、そのような機能がついた車は高くなる。よって私の車は金銭的問題で、タイヤとハンドルがついているぐらいであり、運転手がミスったら、そのミス通り事故を起こしてくれる、素直な仕様である。

現在でも事故防止機能のある車を購入した場合、補助がもらえることもあるようだが、導入が任意な以上、つけない人はつけないだろう。これからの車には、タイヤ、ハンドル、事故防止機能を、もう屋根ぐらい忘れても良いから義務付けるべきではないだろうか。

陸上女子の高男性ホルモン選手排除は「差別」? それとも「平等」?

カレー沢薫の時流漂流 第42回

陸上女子の高男性ホルモン選手排除は「差別」? それとも「平等」?

2019.05.13

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第42回は、陸上女子で高男性モルモンの選手が排除された問題について

陸上女子800メートルで五輪2連覇中のキャスター・セメンヤ選手が「男性ホルモンのテストステロン値の高い女子選手の出場資格を制限する国際陸上競技連盟の新規定撤回」を求めたことについて、スポーツ仲裁裁判所はその訴えを退けたという。

世界陸上2009で「男性に見える選手が女子800メートルに出場している」と話題になったことを覚えているだろうか。

その昔、娘の代わりに女装して受験に挑もうとした父親が御用になるという事件、というか事故があったが、本件はそんな単純な話ではない。

先天的に男性ホルモン値が高いだけで、違反はなかった

当時も「みなさんお気づきになられてないかもしれませんが、男性が出場していませんか?」と疑惑が持たれ、セメンヤ選手は性別検査をすることとなった。その結果は卵巣と子宮がなく、精巣が体内にあり、男性ホルモン値は通常の女性の3倍だと判明した。

これは先天性のものであり、セメンヤ選手は作為的に違反行為をしたわけではない。

しかし、今度は「セメンヤ選手はこのまま女子の競技に出場していいのか」という議論が起こった。実際セメンヤ選手は世界陸上では二位の選手に2秒の差をつけて圧勝している。

つまり、フェラーリと、オートマなのにまさかのエンストをする私の軽自動車は同じ「クルマ」だが、それが同じルールでレースをするのは果たして公平といえるのかという話になったのだ。

端的に言えば「それはズルくね」という意見が出たのである。

よって国際陸上競技連盟は「男性ホルモン値により出場を制限する」という、どう考えてもセメンヤ選手対策のために作ったとしか思えない新規定を出したのだ。当然、セメンヤ選手側はそれを差別であると争ったのだが、冒頭に言った通りこの訴えは退けられた。セメンヤ選手は当面、特定の女子陸上競技には出場できなくなる。

生まれ持った「才能」との線引きはどこで?

一応そのような結果になったが、それが誰から見ても正しい結論であるかというと疑問が残るところだ。

セメンヤ選手の体質を、足が速い、頭がいい、ワキが臭いなどと同じ「生まれ持った才能」だとしたら、それを理由にセメンヤ選手を締め出すのは「才能があるやつが出場するのはフェアじゃない」と言っているようなものになってしまう。

それが不公平となると、もはや選手全員が手をつないでゴールするという、強烈なモンペがいる小学校の運動会状態にするしかない。

では、男性ホルモン値で出場が制限されるなら、選手が薬や何らかの医療行為で男性ホルモン値を下げれば出場できるようになるのだろうか。

それでは「あなたは酒を飲まないとこのカーレースに出場できません」と言っているようなものだ。逆にそれこそ「ドーピング」である。

そして生まれつきの体を変えなければ出場させないのであれば、それは「人権侵害ではないか」とも言われている。

これは、学校などで、生まれつき茶髪の生徒の髪を黒く染めさせるのと似ている。髪を染めることが悪いのではなく「皆と同じじゃないのが悪い」という問題にすり替わっているのだ。

では、選手は男性競技なら出場できるのか、というとまた難しいだろうし、女性として生きてきて女性選手として活動していきたいという選手に、男性としてなら出て良いというのもまた人権侵害だろう。

そうなると選手は陸上選手として活動する場がなくなってしまう。

差別には違いないが、「平等」と両立できない状態に

生まれつきの身体的特徴で活動が制限されてしまうのはやはり差別といえよう。

しかし、もし私がアイドルになりたいと言っても「先天的な顔の特徴」により、活動の場が制限される可能性が高く、それが「差別だ」と言って聞き入れられるかは別の話だ。

つまり良くも悪くも「生まれ持った才能」のせいで何かを断念しなければいけないのは誰しもあることであり、セメンヤ選手の件もその一つと言えなくもない。

もし今後、今の状態のままセメンヤ選手が女子競技に出られるようになったとしても、今度は一緒に走る選手が「不公平感」を感じてしまうだろう。

つまりどのような結果になっても「誰かが納得できない」案件なのである。

ところで、選手は女性として生まれながら、その容姿ゆえ、からかわれることが多かったという。そんな彼女が見つけた陸上競技という居場所を、生まれつきの体質を理由に奪うのは酷な気もする。コミュ症がやっと見つけた居場所であるネットを奪われるようなものだ。

だが、そもそも活躍できたのが、その体質のおかげ、と言えなくもないのが、さらに事態を複雑化している。誰かにとっての平等が、他の誰かにとって不平等になる以上、完全なる平等、というのは難しいのかもしれない。

もはやお互いが「向こうのケーキの方がでかいような気がしないでもない」と思っている状態が一番平等なのかもしれない。