「雪朱里」の記事

雪朱里

雪朱里(ゆきあかり)

ライター・編集者

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

「墨だまり」を取る

これまで本連載(第13回第14回)でもふれたように、機械(ハード)に適した文字(ソフト)をのせなくては、美しい印刷や画面表示は得られない。写真技術をもちい、レンズを通して文字を印画紙に焼きつける写植において、文字を打ったときにその文字をいかに「ふつう」に、違和感なく見せるか。そのためには、ときに「うつくしい原字」とは逆行するかのような、いまでは想像もつかないようなデザイン処理もほどこされていた。

「最たるものが、本蘭明朝の “隅取り”です」
橋本さんは語る。

写植で印字する文字は、線が鋭角に交差する部分に黒みがたまりがちな傾向があった。

「たとえば木偏や、『東』という文字の左右のハライの付け根の部分のように、線が交差し集まるところがすこしぼやけて、他の部分よりも太くなってしまう。だからこうした鋭角に交わる部分は、印字したときにちょうどよくなるように、切り込みを入れる処理を行ったんです」

本文サイズに小さく印字されたものであれば気づきにくいが、大きめに印字されたものを見ると、たしかに大きな食い込みが入っているのに気がつく。

本蘭明朝の隅取り。鋭角に線が交わる部分に、大きな切り込みが入っている

「隅取りによって、シャープで美しい印字結果を得られます。考え方としてはよいのですが、本蘭明朝は写研がこの『隅取り』の処理をやりはじめた初期の書体なので、切り込みがちょっと大きめで、目立つんです。もちろん、制作時には何度もテストをして、見え方を確認しましたが、鋭角に線が交わるところがみんなこう白くなっています。『この切り込みがきれいな模様みたいに見えるから、あったほうがいい』なんて言ってくれる人もいましたが、すこし大きすぎてしまった。でも、写植機で印字するとこれでちょうどよかった」

「それまでの明朝体では、横線が細いため、線の交差部分の黒みがそれほど気にならなかったんです。ところが本蘭明朝では、従来の明朝体に比べて横線を太くしたため、露光の状況によって黒みがたまりやすくなってしまったので、隅取りの必要が生じたのです」

もし現代のデジタルフォントで同じ処理をしたら、切れ込み部分も鮮明にデータそのままの形に出て、大きな違和感を生じてしまうだろう。

「いまのデジタルフォントには不要な処理ですが、当時はこの処理をしたからこそ、本蘭明朝はうつくしい誌面をつくることができた。どうしたらきれいに印字できるのか試行錯誤を重ねて、愚直にコツコツと、すべての文字で、この処理をおこなったんです。こうしたことも、写研における文字品質を高める『画質修正』のひとつでした」

万能機パボの登場と書体ニーズの高まり

話はすこし前後するが、全自動写植機サプトンが開発される一方で、1960年代から70年代にかけて、本連載第12回でも触れた本文用写植機スピカ、次いで万能写植機パボが登場したことが、写植の普及をより進めた。とくに1969年(昭和44)から登場したパボは、高度な組版を効率的に行うことができることから「手動機の王様」といわれ、大企業から小規模の写植専業者や印刷所にまで、次々と導入された。

本文用写植機 スピカA(『写研30』写研、1973年8月)
万能写植機 パボK(『写研30』写研、1973年8月)

もともと、昭和30年代(1955年~)に写植が普及したのは、新聞や雑誌の広告、ポスター、カタログ、パンフレット、DMといったペラものの商業印刷物制作において、デザイナーが写植を使うようになったことが大きく影響している。さらに、紙媒体だけでなく、カッティングマシンを併用すれば、看板に用いる大きな文字も印字できるようになった。

「これまでは活字を扱う印刷所がメインだったのが、ポスターや広告、パンフレットなどの商業印刷物、さらには看板屋さんや墓石を彫るところ、道路標識をつくるところなどまでユーザーが広がり、文字を扱うすべての業界が写植のユーザーとなっていった。そうすると、明朝体とゴシック体だけでは足りない。見出しや装飾用など、それらに適応した多彩な書体が必要とされるようになっていきました」(つづく)

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

これまでの記事一覧ページはこちら

“リアル”でなく“ブック”

高速で文字盤が回転する全自動写植機「サプトン」で最適な印字ができ、書籍や文庫本の本文に用いたときに明るく力強い誌面がつくれる本蘭細明朝体は、1975年(昭和50)に第4回写研フェアで発表された。写研フェアとは、写研が顧客を招き主催していたイベントで、新製品や新書体の発表の場だった。

「サプトンにのせて本文を組んだときに、読みやすい文字にするにはどうしたらよいか。それを出発点に開発したのが本蘭細明朝体なんです。だから書体のなまえが“本蘭明朝”。ふつうに考えればわざわざ“本”なんて最初につける必要はなく、“蘭明朝”でよい。特化して開発されたから“本蘭”なんです」

本蘭明朝体について語る橋本和夫さん

本蘭細明朝体。

その名に含まれる“本”は、てっきり“本物”や“本当”をあらわす文字なのだと思っていた。

「そうじゃないんです。ブックの“本”。書籍本文(ボディータイプ)用の蘭明朝、という意味のなまえなんですよ」

書体の命名は石井裕子社長だ。

「石井茂吉先生が亡くなったあとの写研の書体名は、石井裕子社長がつけていました。石井社長は蘭がお好きで、写研のオリジナル書体には“蘭”の文字を入れることが多かったですね」

写研で長く広報をつとめた杏橋達磨(きょうばし・たつま)氏が『鈴木勉の本』(『鈴木本』制作委員会 編著、字游工房 発行/1999年)に寄せた文章にも、こんな一文がある。

〈写研の石井裕子社長は、ネーミングに関して特別な感性を発揮される。機械やシステムなどのネーミングもしかり、書体の名前もしかり、全ては石井さんの考えが生かされている。商品の持っているイメージを、どういう名前で表現すれば理解されやすいか、がその原点になっているのだ。〉

これは鈴木勉氏がデザインした「スーボ」(*1)について書かれた文章だが、写研の書体名全般についてよく言い表している。

「石井裕子社長は、書体をつくるということに対しても、見識がとても高い方でした。デザイナーがよいと思ってつくった書体でも、第三者が客観的に見るとおかしい場合もある。石井社長は第三者としての“見る目”を持っていらしたので、指摘が的確でした」

ときには原字が完全にやり直しになることもあった。

「つくるほうは意図に沿って設計したつもりでも、できあがった結果がそのとおりになっているかというと、話は別です。そこを冷静な目で『こんな“あ”はないでしょう』と指摘をしてくれる方がいるというのは、大事なことでした」

普及まで10年

モダンな表情の本蘭細明朝体はとても好評で、サプトンの普及とあいまって、一時期は「書籍の本文といえば本蘭細明朝体」といわれるまでになったが、普及までには約10年を要した。個性的なデザインの書体は、印象が強烈なためすぐに浸透するが、明朝体やゴシック体のような基本書体の普及には時間がかかる。

発売から10年が経った1985年(昭和60)、それまでの「本蘭細明朝体」を「本蘭明朝L」として、LからHまでの7ウエイトが発売された。

本蘭明朝体ファミリー

ファミリー化は、かなを鈴木勉氏、漢字は岡田安弘氏をチーフとし行われた。全7ウエイトのファミリー化がきっかけとなって、本蘭明朝ファミリーはようやく、広く使われる書体となった。 (つづく)

(注)
*1:スーボ:鈴木勉氏がデザインした書体。1972年(昭和47)第2回石井賞創作タイプフェイスコンテストで最優秀賞を受賞し、1974年(昭和49)に写研から文字盤が発売された。

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

これまでの記事一覧ページはこちら

これまでの記事一覧ページはこちら

タイプフェイスの生きる道

「ハードとソフトは車の両輪」

それは、橋本さんが写研に入社したときから常々、石井裕子氏(茂吉氏没後、写研社長に就任)から言われた言葉だった。

「われわれのつくる文字は、それを印刷したり表示するハードを無視することができません。活字には活字時代の文字のデザインがあったでしょうし、写植には写植のデザインがあった。もっといえば、現在のデジタルフォントも、ハードが変われば適するデザインも変わるはずです。だから、ハード(機械)だけがやたらと進歩すればよいというものではなく、そこにソフト(文字)がついていかなくてはダメだし、かといってソフト(文字)だけが進歩しても、ハード(機械)がついていかなかったら、よいかたちで印刷物や画面表示ができません」

だから両輪なのだ、と石井裕子氏に教わったという。

「われわれの仕事は、文字のデザインを理解していたとしても、ハードのことをある程度知らなくては、適した書体がつくれない。もちろん、ハードの進化ばかりを追求して、文字のデザインがそれを表現できるものになっていなくてはしかたない。ハードとソフトが互いを活かせるように共存共栄していくのが、タイプフェイスの生きる道なのではないでしょうか」

そういう意味で、前回も話題にのぼった、1965年(昭和40)登場の全自動写植機「サプトン-N」は、ソフト(文字)の対応なしではその魅力が十分に活きないハードだった。

全自動写植機「サプトンA」のシステム(「サプトン-A 7261」パンフレットより)

従来の写植機は、長方形の板状の文字盤を機械にセットし、オペレーターが手動でシャッター位置に拾いたい文字を合わせて、1字1字印字していくものだった。サプトンの場合、文字のデータはまず入力用さん孔機で「さん孔テープ」に打ち込まれる。さん孔テープとは、穴のあいた紙のテープで、あいている孔が電気信号をあらわしている。

サプトンは、このさん孔テープのデータを読み取って、円盤状の文字盤を高速回転させ、印字していく。たとえば「愛のあるユニークで豊かな書体」というデータを読み取ったら、それをババババッと瞬時に印字していくという具合だ。

毎分300字の印字スピードは画期的で、とくにスピードが重視される新聞などの分野を中心に導入されたが、文字盤が高速回転するために、文字の横線が細いとかすれなどの原因となった。まさに、機械が変われば文字も変えなくてはいけないという事態が起きたのだ。

そこで、活字書体と石井明朝体両方の魅力を生かしつつ、サプトンで一番よい文字印刷ができる、あたらしい本文書体の登場が切望されることとなった。

「本蘭細明朝体」。のちの本蘭明朝L。橋本さんが写研で手がけた代表作のひとつである。

文庫本の本文に使える書体

石井茂吉氏による優雅な書体「石井細明朝体」
書籍本文用にあらたにつくられた「本蘭細明朝体」(のちの本蘭明朝体L)

写研の本文用明朝体といえば、石井明朝体だった。創業者・石井茂吉氏がつくった優雅で上品な書体で、写植があまり使われなくなった現在でも、そのすばらしさは伝説のように語り継がれている。

「石井明朝体は優雅で格調の高い書体で、ポスターや広告、チラシのように“文字を見せる”ものでは右に出るものはない美しさです。ただ、筆書きを活かし、エレメントに強弱があるため、書籍や文庫本で本文を組んだときにチラついたり、活版印刷に比べると弱々しく感じられたりするという面もありました。縦組みならばよいのですが、文字固有の形を活かしている分、横組みにするとラインがそろわずガタついて見える特徴もあった。そこで、書籍や文庫本の本文に使えて、なおかつサプトンに対応した明朝体をつくるプロジェクトが立ち上げられたんです」

橋本さんは、全体的なコンセプト・仕様の決定と、かなの原字を担当した。漢字は鈴木勉氏をチーフに、5,6人のチームで制作された。

「石井明朝体は、ふところがせまくて手足が長いのが特徴です。それがかっこいいのですが、12級(*1)などの小さいサイズで使うと太さムラが目立ってしまう。そこでまず、縦線に対して横線を太くし、ハライの先も太くして、ふところを広げました。そうすると、白さが広くなり文字がふっくらと豊かに、きゅうくつでなくなる。明るさと、活版印刷のような力強さをもち、横組みにしても並びがよく、読みやすくなる」

このころには、本文が横組みされることも増えてきていた。すると、数字は和数字から洋数字になり、和欧混植も増える。ふところが広くならびのよい本蘭明朝は、和欧混植もきれいに見えた。

書体をデザインするひとに欠かせないこと

本蘭細明朝体のかなの制作は橋本さんがひとりで行い、漢字の仕様も橋本さんがつくった。まず最初に「永 東 国 書 調 風 愛 機」といった基本文字をデザインして、コンセプトをかためる。その後100文字に増やし、何度も文章を組んでは検証して修正するテストを行った。

「本文用だから、10文字ぐらいでテストをするだけではダメなんです。文章を組む、それも、1ページ分ぐらいを組んでみないとわからない。だから、その状態でのテストを何度か繰り返して、方針をかためました。漢字については、その後は鈴木くんにほぼ任せました」

従来の明朝体より横線が太く、ふところの広い本蘭細明朝体は、全自動写植機サプトンでの再現性がよかった。「読みやすい」と好評を博した本蘭明朝体の登場で、サプトンの売り上げも伸びた。

写研では、書体のみの販売は行っていなかった。写植機と書体はセットだったのだ。

「書体を再現する手段が、時代によって変わってくる。手段が変わることで、書体のデザインが変わっていく。だからわれわれ書体デザインにたずさわる者は、世のなかのメディアに敏感でなくてはならないのです」(つづく)

(注)
*1:級とは、写植で文字の大きさを表す単位のこと。1級=0.25mm。

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。