「雪朱里」の記事

雪朱里

雪朱里(ゆきあかり)

ライター・編集者

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

文字界最強バッテリー

時はおそらく1970年(昭和45)過ぎのこと。東京・石神井公園近くにあった毎日新聞社グラウンドで、ある野球の試合が行われた。

キャッチャー・橋本和夫(写研=当時)
ピッチャー・桑山弥三郎(グループ・タイポ/代表書体はタイポス)

ほかに参加したのは、次のようなメンバーだ。

小塚昌彦(毎日新聞社=当時/代表書体は小塚明朝・ゴシックや毎日新聞書体)
水井正(書体デザイナー/代表書体はナウ)
石川忠(タイプディレクター)
吉田佳広(グラフィックデザイナー/著書に『基本レタリング字典』グラフィック社など)
杏橋達磨(写研 広報担当=当時)

文字界のレジェンド勢ぞろい。まさに、文字界ドリームチームである。

日本レタリング協会の公募展応募作品をまとめた『日本レタリング年鑑1969』表紙(日本レタリングデザイナー協会編、グラフィック社刊、1969年)

「あれはいつごろだったかな……。1969年(昭和44)に写研がタイポスの文字盤を発売した後だと思うから、1970年以降かな。ぼくが30代後半から40歳ぐらいのころに、日本レタリングデザイナー協会の仲間が集まって、野球をしたことがあったんですよ。石神井公園のすこし先に、毎日新聞社の野球場があってね」(橋本さん)

同じく試合に参加した小塚昌彦氏によれば、この日は文字関係者が集まって2チームに分かれ、試合したのだという。

「ぼくは学生時代、野球部でキャッチャーをやっていたんです。それでこのときにもキャッチャーをやりました。ピッチャーは桑山さん。みんな、打球が塀を越えたらホームランだ! なんて大きいことを言いながら、わいわいやった覚えがあります」(橋本さん)

野球の思い出を語る橋本さん

残念ながら試合はその一回だけだったので、チームのロゴをデザインするまでには至らなかったようだが、仮にロゴをつくることになったら、そうそうたるメンバーのなかでだれがロゴのデザインを手がけるのか、みんな頭を悩ませたに違いない。

日本レタリングデザイナー協会は1971年(昭和46)、広義のタイポグラフィ発展を願って「日本タイポグラフィ協会」に改称し、現在に至っている。

橋本さんはしばらく協会に参加していたが、写研自体が乗り気でなかったためか、自然消滅のようなかたちでいつのまにか退会となっていた。以降、写研は直接一緒に仕事をする相手以外に、あまり外部デザイナーとの交流をもたなかった。

(つづく)

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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前回までで、1970年代の新書体ブームや、写研タイプフェイスコンテストから生まれた書体についてのエピソードをまとめてきた。ここで少し、具体的な書体の話から離れて、当時の書体設計士(フォントデザイナー)をとりまく状況について、橋本さんの身のまわりで起きた出来事から振り返ってみたい。

日本レタリングデザイナー協会の発足

1964年(昭和39)、文字造形に関する研究・発表・相互親睦を目的に、日本レタリングデザイナー協会が結成された。1968年(昭和43)5月には第1回公募展を開催(応募点数411点、入選113点)。翌1969年(昭和44)10月には、第2回レタリング公募展を開催した。

第2回の審査員をつとめたのは原弘氏、亀倉雄策氏、岡秀行氏、田中一光氏、大谷四郎氏、佐藤敬之輔氏、篠原榮太氏、三宅康文氏ら。作品は、タイプフェイス、ロゴタイプ、マーク・シンボル、タイポグラフィ、提案・研究の各部門で募集された。

『日本レタリング年鑑 1969』

この応募作品をまとめた『日本レタリング年鑑1969』(日本レタリングデザイナー協会編、グラフィック社刊、1969年)には、写研(当時はまだ写真植字機研究所)・橋本さんの作品も、「横組用細明朝・ひらがな」「縦組用細明朝・ひらがな」の2書体が掲載されている。

『日本レタリング年鑑 1969』に掲載された橋本和夫さんの作品

「日本レタリングデザイナー協会ができて、なかば強引に参加したんです。会社には、あまりいい顔をされませんでした」(橋本さん)

この時代は、写研に限らず、会社として開発される書体では担当デザイナーの名前は公表されないことが多かった。

「いまだったら、フォントメーカーが新しいフォントをリリースするときには、当社のデザイナーのだれだれがつくりました、とデザイナー名を前面に出して宣伝しますね。でも、1960~70年代頃はそうではなかった。腕のよい職人は囲いこむという感覚の会社がほとんどで、会社として発売する書体に関しては、会社のなかのだれがつくったのかは公表しない。そういう方針だから、日本レタリングデザイナー協会のようなところで、外部の人たちと交流してほしくない、という考えだったようです」

「写研では、だれか一人だけで書体をつくることはなく、かならず何人かのグループでつくっていました。だから、ある書体について『ぼくがつくりました』とは言いづらいと、ぼく自身思っていました。その書体は、会社の製品として発売するわけですしね。いまの人から見たら閉鎖的に感じるかもしれないのですが、会社の仕事とはそういうものだと考えていたんです」

一方で橋本さんは、文字にかかわる仕事をする外部のデザイナーと交流したいとも考えていた。時代はちょうど、高性能な写植機の普及がすすみ、広告や雑誌、看板など、あらゆる媒体のデザインで写植の文字が使われるようになってきたころだった。デザイナーから多書体へのニーズが生まれ、それにこたえてタイポスやナール、スーボのような新書体が次々と生まれていく、その前夜ともいえる時代だ。

「デザイナーのデザインに適応する書体をということで、写研には多書体が求められ、バラエティ豊かな書体をつくることが商売の種になっていった。そういうなかで、日本レタリングデザイナー協会を通して、グループ・タイポの桑山弥三郎さんや伊藤勝一さん、林隆男さんとか、TBSのタイトルデザインを手がけていた篠原榮太さん、当時毎日新聞に勤めていた小塚昌彦さんなど、いろいろなデザイナーと交流するようになりました」

「公募展の審査立ち会いにもよく行きましたね。協会に参加しているのはフリーランスのデザイナーが多くて、集まろうといえばいつでも集まれる。夜に集まると、明け方まででも会合が続いたりする。ぼくはサラリーマンだから、翌朝には会社に行かなくてはならず、ちょっと困りました。書体制作についても、写研ではきちんと品質管理を行い、スタッフで分担をして、効率的に大量生産をしていくというつくり方をしていた。だからフリーランスのデザイナーの方々とは、すこし感覚が違っていたんですね。そんなぼくを見て、『橋本さんは、デザイナーなの? サラリーマンなの?』と聞く人もいました」

本来、デザイナーとサラリーマンは両立できるはずのものだ。しかし個人の名を出して活動するデザイナーから、会社員らしい会社員だった橋本さんの姿を見たときに、思わず出た言葉だったのだろう。

課長でも係長でもなく

一方、写研のなかでも、原字制作の責任者をつとめる橋本さんは、特別な存在だった。

このころ、原字課は大塚の東京本社ではなく、埼玉県和光市の工場にあった。

「ぼくらは、工場に所属する、原字書きの部門だったんですね。毎日生産性を上げて製品をつくっていかなくてはならない工場のなかで、ぼくたちはデザインという感覚的な判断で、『この書体のここが嫌だから直そう』などと言う。すると工場のなかでも、『橋本さんはサラリーマンでいて、サラリーマンじゃないみたいだ』と言われてしまったのです

そんな橋本さんを、職場の人たちはこう呼んだ。
「師匠」と。

「よその会社の人が聞いたら『何様?』って思いますよね(笑)。でも、写研のみんなは『橋本さんは、営業や工場の課長さんや係長さんとはなにか違う』と言うんです。そんなことで、みなさんにはよく『師匠』と呼ばれていました」

「師匠」と呼ばれる会社員は、なかなかいないのではないか。

「フリーランスのデザイナーを中心とした集まりではいかにも会社員らしく見えても、写研という会社組織のなかでは、原字部門はすこし、趣が違ったのでしょうね」

 (つづく)

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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まさかの連続受賞

1974年(昭和49)、第3回「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」の結果が発表されると、人々はふたたび驚きに包まれた。スーボで第2回の1位を獲得した写研社員の鈴木勉氏が、もう一度1位に輝いたのだ。20代前半の若手(当時25歳)、それも主催社の社員が2回連続で1位を受賞したのである(応募点数238点)。

鈴木氏は新書体の開発に意欲的だった。スーボの発売に向けて、チーフとして社内制作チームを指揮しながらも、第3回コンテストへの応募準備を進めていたのだ。

第3回の1位となった作品(のちのスーシャ)は、前回のスーボとはおおきく印象の違う、シャープな表情の横組み専用書体だった。

スーシャ(横組み専用)

その制作意図は次のとおりだ。

〈元来日本の文字は縦書き用であるが、現在では横組が相当多くなってきている。しかし、印刷文字においては同一文字を縦横兼用にしているのが現状である。そこで、横組用文字の制作を試みた。(1)横への視線を滑らかにするために正斜体(傾斜角度約86度)とした。(2)横線については、縦線が傾斜している関係で右下がりに見える欠点を矯正し、右上に抜けるような筆法にした。(3)従来の細明朝体よりも力強さを出すため、縦・横の太さの差を少なくした。(4)ベースラインを揃えるため、文字間の重心を下げた〉

2回連続の1位入賞を、橋本さんは「偉大」と讃える。

こうしてスーシャも商品化されることとなり、鈴木氏は20代半ばにして大量の原字を制作することになった(コンテストの応募作品は約200字。書体として発売するには、これを約6000字に増やさなくてはならない)。少しでも制作期間を短くするためにチームが組まれ、鈴木氏がチームリーダーとなった。

当時の原字課は、課長の橋本さんの下に4、5人がいくつかのチームを組んで、文字制作にあたっていた。

「各リーダーのもと、チームごとに机の島をつくって作業していました。鈴木くんもそのリーダーの1人でした。写研が多書体化するにつれ、それぞれ3、4書体を並行して制作しました。書体の統一性や品質の安定性と、生産性などを考慮して、1チームが4、5年で数書体を並行して担当するようにしたのです」

スーシャは商品化にあたり、組み合わせて使えるようゴシック系見出し書体のファミリーも同時に開発された(のちのスーシャB、ゴーシャE)。鈴木氏がリーダーを務めたチームで約5年をかけて3書体の原字を制作したのだ。

スーシャB(上)とゴーシャE(下)

書体名の「スーシャ」は「鈴木さんの斜体」を縮めたもの。「ゴーシャ」はその「ゴシック版」ということで名づけられた

1979年(昭和54)年に発売されると、スーシャ、ゴーシャとも、広告媒体やテレビのテロップなど幅広い場面で用いられる書体となった。

驚きの依頼

業界1位の写研が開催するコンテストにおいて、2回連続で最優秀賞に輝いたことは、快挙だった。書体・印刷関係者以外にも注目され、鈴木氏の記事が新聞や週刊誌に掲載された。朝日新聞の「ひと」欄に掲載されたインタビュー(1974年6月5日付)では、賞金100万円の使いみちについて「私も年ごろ、相当部分は結婚資金になるんでしょうねえ」と答えた。(*1)

そんなある日、橋本さんは鈴木氏から予想外の依頼を受けた。「結婚式で媒酌人をしてほしい」という頼みだった。お相手は同じ写研社員で、スーボの制作チームにいた女性だった。

「鈴木くんは、よく家に遊びに来てくれたんです。ぼくは1963年(昭和38)に結婚したあと、会社近くの巣鴨に住んでいました。写研に入る前から始めた写真の趣味はずっと続いていて、自宅に押入れ暗室をつくって現像していたのですが、その手伝いに来てくれたものでした」

公私ともに慕っていたからだろう、鈴木氏は橋本さんに媒酌人を頼んだ。媒酌人とは、結婚式や結婚披露宴で新郎新婦の紹介をしたり、2人のサポートをしたりする役のことだ。

「ぼく自身も40歳になるかどうか、というときのことです。まだ若造だというのに、鈴木くんとお相手のお母様が、きちんと着物を着て、家にあいさつに来られた。ぼくだって息子みたいなものでしょうに、親というのはすごいものだなあと、感心するやら恐縮するやら。よい人生経験をさせてもらいました。鈴木くんには輝かしい業績がありすぎて、披露宴では紹介する内容を絞りこまなくてはならないという、うれしい苦労もありました」

橋本さん夫妻はその後、鈴木氏の親しい友人であり写研同期の2組の媒酌人も頼まれたそうだ。

「鈴木くんは結婚したあとも、お正月にはよく遊びに来てくれました。うちの子どもたちも面倒見のよい鈴木くんにはお兄さんのようによくなついて、かわいがってもらったものです」

神のいたずら

20歳で写研に入社し、23歳、25歳でそれぞれ石井賞タイプフェイスコンテストの1位を獲得するなど、はやくから書体設計士としての才能を開花させ活躍した鈴木氏は、1989年(平成元)、40歳のときに写研を退職し、同じく写研を退職した鳥海修氏、片田啓一氏とともに字游工房を設立。1991年(平成3)には制作ツールとしてMacを導入し、ヒラギノ書体の開発などを手がけた。

1995年(平成7)に写研を退職し、フリーランスとなっていた橋本さんに、新たに手がける書体の原字制作を依頼するなど、2人の交流は続いていたが、1997年(平成9)4月、鈴木氏は入院。翌1998年(平成10)5月6日、かえらぬひととなった。49歳という若さだった。

鈴木氏の人と仕事をしのんで制作された『鈴木勉の本』(字游工房、1999年)に、橋本さんはこんな書き出しで寄稿している。

〈「すずきつとむ君」なんと親しみがあり、懐かしさを覚える響きをもった名前で、つい最近まで幾度となく呼んだことでしょう。その鈴木くんを追悼する言葉をこんなに早く綴るのは、全く残念で神の悪戯としか言いようがありません〉(*2)

橋本さんにとって鈴木氏は、ともに書体制作に向き合い、ときに指導しながら、公私ともに深い時間を過ごした後輩だった。橋本さんの代表作とされる本蘭明朝のファミリー化を手がけたのは鈴木氏だった。スーボやスーシャといった個性的な書体から、ヒラギノ書体などのベーシックなものまで。じつに多彩な文字を生み出した書体設計士だった。

「公私ともに、貴重な経験をさせてくれたひとでした」

(つづく)

(注)
*1:「鈴木本」制作委員会編『鈴木勉の本』(字游工房、1999年)
*2:同書 P.97 橋本和夫「鈴木勉くんと私」

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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