「雪朱里」の記事

雪朱里

雪朱里(ゆきあかり)

ライター・編集者

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。
1000字の描き直しを越えて ―ナール制作の舞台裏

最初の書体感覚をもち続けることのむずかしさ

写研で書体デザインの責任者を務めていた橋本和夫さんに衝撃を与えた書体、ナール。作者の中村征宏氏が第1回石井賞創作タイプフェイスコンテスト応募時に書いた設計意図は、次の通りだ。

〈縦組みの場合にも、横組みにも字間のバランスがムリなく一つの流れを持つことを念頭におき、ボディータイプとして、従来使用されなかった丸ゴシック系のタイプフェイスを試みた。字面をいっぱいに使い、文字のエレメントを強調し、細い線で構成することによりシンプルさを求めた。字面を大きく使うことが字間の問題に関連し、字間のバランス調整のための切り貼り、字詰めの工程を少しでも短縮することができるのではないかと思う。その結果、組み上がりにおいて、集合の調和が生まれるのではないかと思う。広告制作物などにおいて、コピーやサブ・タイトルなどに適するのではないかと考える。〉(*1)

中村征宏氏の著書『文字をつくる』(美術出版社、1977年)

1970年(昭和45)5月18日にコンテスト授賞式が開催されたのち、写研からの文字盤発売に向けて、同年8月ごろから本格的な書体制作が始まった。必要な文字数は漢字が約5400字、ひらがなとカタカナで約150字、アルファベット約100字、その他(約物、記号など)約200字で、合計約5800字だ。写研の監修を受けながら、原字はすべて中村氏が描いた。監修を担当したのは橋本さんである。

約5800字の原字を描くのは、想像以上に大変な作業だ。橋本さんは語る。

「コンテストに応募するときに描いていただくのは、漢字50字とひらがなカタカナ、そして記号の一部だけです。それを1枚のパネルに構成するので、文字構成としては、まとめやすい。ところが、文字盤化する際には約5800字を1文字1文字描くことになり、完成するまでの年月は2年はかかります。外部デザイナーの方と書体をつくるようになって、われわれが一番苦労したのは、“今月と来月では、仕上がってくる書体の雰囲気が変わってしまうことがある”ということでした」

「文字を増やす際に字種リストを渡すのですが、『何の文字をつくるか』を見るためのリストのはずが、長い間ながめているうちに、つくっている文字がリストの文字に似てきて、当初のデザインと雰囲気が異なってきてしまった。ナールは既成概念をくつがえす、突き抜けたデザインの丸ゴシック体だったはずなのに、描き進むうちに最初のデザイン思想から離れ、持ち味が失われるということが起きたのです」

原字を描き進めるうち、コンテストのオリジナルデザインから、いつのまにか特徴が変わってしまっていたのだ。そのままでは、まるで違う書体になってしまう。結局、途中で1000字分を描き直すことになった。

中村氏もこのことを振り返り、著書に〈人の感覚は徐々に変化するものには気づきにくいものですから、いつも最初の見本と照らし合わせながら書き進めることが大切です。このようなことは、太さだけのことではなく字形とか感覚面でも同じようなことがいえます。感覚もときがたつことによってどんどん変化するものですが、とくに最初の感覚は大切にしていきたいものです〉と書いている。(*2)

悩ましい文字

「もうひとつ、ナールを監修したなかで、ひどく悩んだことがありました。ナールは、字面いっぱいに真四角に描かれた書体です。たとえばひらがなの『り』は通常は縦長、『へ』は横長の形をしていますが、これらの文字すら、できる限り正方形に近づけて描かれている。ぼくが悩んだのは、『々』という漢字でした」

ナールでは、縦長の「り」、横長の「へ」も正方形にかなり近い

「時々」「常々」「佐々木」など、同じ漢字を繰り返すことを表すときに用いられる「々」の字だ。

「常識的にいえば、この字は他の漢字よりも小さく描きます。では、通常は縦長、横長など固有の形をもつひらがなですら正方形に近づけているナールでは、どういう大きさにすればよいのか? 最初は『々』も他の漢字と同じ大きさで、真四角にするのがよいと思ったのですが、いざつくってみると、やはり少しは他の漢字より小さくしなければ『々』に見えないとわかりました」

「他の書体をつくるときにも『々』をどういう大きさにするか、いつも考えるのですが、ナールのときにはとりわけ悩んだものでした」

また、こうした試行錯誤を経て、「文字を図形化する際も、かなと漢字の使い方に意味のあることをあらためて認識しました」という。

新聞雑誌、広告から、道路標識まで

途中で1000字の描き直しなどがあったものの、コンテストから2年後の1972年(昭和47)、ナールは写研写植機用の文字盤として発売された。書体名は、「中村」の “ナ” と、丸みを表す言葉である「ラウンド」の頭文字 “R” をとって「ナール」とつけられた。(*3)さらに、ナールと組み合わせて使うことを想定した中太の「ナールD」の文字盤も1973年(昭和48)に発売された。

ナールD(上)とナール(下)

中村氏はコンテスト応募当時、ナールを本文書体と考えていたが、いざ発売されてみると、広告や雑誌、新聞などの見出しなどに使うディスプレイ書体として大人気となった。ポスターや広告のキャッチフレーズ、テレビの字幕、道路標識などに幅広く使われ、一世を風靡した。

「タイポスによってデザイナーのつくる書体が注目され、少女たちが丸文字を書くようになっていく流れのなかで登場したナールは、『時代に乗った』ともいえますが、むしろ『時代をつくった』書体といえるでしょう。写植の文字はナールの登場によって、それまで職人が手描きしていたレタリング文字の分野に浸透していった。“新書体ブーム”の幕開けでした。そうして写植の機械は、単に文字を印字するだけでなく、多彩なディスプレイ書体によって雑誌や広告にファッション性を生み出す手段のひとつとして、とらえられるようになっていったのです」

(つづく)

(注)
*1:中村征宏『文字をつくる』(美術出版社、1977年)P.80
*2:同書 P.21
*3:『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』(写研、1975年)P.127

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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既成概念を塗り替える書体

時代をひらく新書体を求め、1970年(昭和45)から写研が開催した「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」。第1回で1位となった中村征宏氏(*1)の「細丸ゴシック(のちのナール)」は、見たひとに鮮烈な印象を与えた。

第1回石井賞創作タイプフェイスコンテスト1位・中村征宏氏「細丸ゴシック(のちのナール)」『写研19』(写真植字研究所「写研」編集室、1970年5月)

「活字書体に慣れた者にとっては思いもよらないデザインでした。それまで『ありえない』と思われていた形を提示し、既成概念を崩した書体だったのです」

いったいなにが、橋本さんにそこまでの衝撃を与えたのだろうか。

ナールは、1.5mmの線幅で正方形の字面いっぱいに描かれた、フトコロの広い丸ゴシックだ。従来の丸ゴシックといえば、石井丸ゴシックのようなフトコロの締まったスタイルであり、ナールのようなフトコロの広い明るい表情の書体は、それまでなかったのだ。線幅の細さも新鮮だった。

ナール(上)と、石井丸ゴシック(下)

作者の中村氏は、看板店での仕事を通して、文字に出会った。やがてテレビ局のタイトルデザインを手がけるようになり、ニュースやドラマのタイトル文字、スタッフやキャストの名前などをテロップ用紙にデザインして描いた。ニュースタイトルの仕事は、ニュースの内容を要約し、1文字8mm角ぐらいで2行ほどに描くというもので、書体は丸ゴシックに統一されていたという。

その後、広告レイアウトやポスターデザイン、カンプ制作などの仕事にたずさわるようになった。中村氏が石井賞タイプフェイスコンテストの募集広告を見たのは、そのころのことだ。(*2)

ニュースタイトルのデザインを通じて、文字を1字として見るだけでなく、1行としての並びの美しさという感覚を身につけたこと、広告デザインの仕事を通じて従来の書体に「字詰めの問題」を感じていたことが、ナールの発想に結びついた。

当時、広告やポスターの見出し文字などは、字間を詰めて組まれることが多かった。写植機で文字の送りを変えて詰め組みすることもできたが、見出し文字については、印画紙に印字した文字をデザイナーが手で1字ずつ切り離し、字間を詰めて貼って版下をつくることが多く、熟練を要するものだった。

〈ナールの発想時にもっとも強く影響したのは、それまでに経験した字詰めの問題処理にありました。この字詰め作業の時間は非常に多くかかることです。広告の版下制作は、ほとんどが絶対的な時間制限下にありますので、時間が短縮できるということは、作業を進行するうえで、よりスムーズに進められるからです。〉(*3)

著書『文字をつくる』でそう語った中村氏の、「ベタ組みで印字しても字間のバランスがよく、行として美しい書体ができないものだろうか」という発想が、ナール誕生の原点だった。

「ナール登場と前後する時期に、女子中高生のあいだで丸文字や漫画文字といわれる丸っこい文字が書かれるようになりました。若い女性たちのひとつの流行だったのです。ナールは、そんな時代の動きとも軌を一にした書体でした」

橋本さんは、そう時代を振り返る。

しかしナールの制作は、けっして順風満帆に進んだわけではなかった。

(つづく)

 (注)
*1: 中村征宏(なかむら・ゆきひろ)書体デザイナー。1942年、三重県生まれ。看板装飾会社、テレビのドラマタイトルやニュースタイトルなどのテロップ制作、新聞広告や印刷物のカンプや版下制作、レイアウトなどを経て、1970年(昭和45)、第1回石井賞創作タイプフェイスコンテストで1位受賞。以降、1970〜2001年にかけて、写研の原字デザインを19書体手がける。現在も中村書体室として、デジタルフォントの制作・販売を行っている。受賞歴として、石井賞創作タイプフェイスコンテストで1位を1回、3位5回、佳作2回(1970〜1994年)。
http://www.n-font.com/

*2:中村征宏『文字をつくる』(美術出版社、1977年)

*3:同書 P.18

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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タイプフェイスデザイナーの発掘

1970年代。
時代は、さまざまなデザインの新書体を求めていた。

「デザイナーが書体をデザインをする」という、いまでは当たり前となった概念を、みずからの新しいデザインとともに打ち出したタイポスの登場は、そんな流れを一気に後押しした。

そうした流れと並行してスタートしたのが、写研による「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」だ。

第1回の授賞式は1970年(昭和45)5月18日、大日本インキビルの18階会場で行われた。コンテストのねらいについて、写研は〈このコンテストは、石井茂吉の遺志を生かし、新しい文字の創作を願って企画されたもので埋もれたタイプフェイスデザイナーを発掘し、若い人たちの文字への関心を高め、タイプフェイスデザインの発表の場を与える〉ものだと記している。(*1)

応募要項は前年に発表され、締切の1970年1月末日までに118点の応募があった。第1回審査は、原弘氏を委員長に、田中一光氏、細谷巖氏、小池光三氏、小柏又三郎氏、写研社長の石井裕子氏を委員として行われた。

課題の文字をどう選ぶか

応募要項づくりの中心になったのが橋本さんだった。

「石井賞創作タイプフェイスコンテストの募集を開始したのが、1969年(昭和44)頃だったと思います。この準備がとても大変でした。どんな文字を課題にするのか、どんなフォームで募集するのかが悩みの種でした。(書体に必要な文字を)2000字書いて応募してください、というわけにもいかないですから」

検討の末、入賞作品が決まった後に展示会が行えるよう、応募作品はパネル1枚にまとめてもらうことにした。1枚のなかに、ひらがな、カタカナ各48字と記号、そして漢字をおさめなくてはならない。そう考えると、応募作品に掲載できる漢字は50字ほどだった。その文字によって書体の出来を判断するのだから、適当に選ぶわけにはいかない。

「写研の写植機で用いる文字盤には、印字する文字を効率よく拾えるよう、『一寸ノ巾』と呼ばれる独自の配列方法を用いています。ふつう漢和辞典では部首別とか音訓別で漢字が並べられていますが、『一寸ノ巾』配列は、部首や画数、音訓で並べるのではなく、形状で漢字を探し出せるよう工夫された配列でした」

「一寸の巾」の基本の見出しは、次のように並べられている。この51種類の基本見出しによって漢字を分類しているのが「一寸ノ巾」基本配列だ。次のように、語呂合わせで覚えられるようになっている。

一寸ノ巾亠辶ワ匚刀ヌク人
厂ハ山阝大小女子口言心手
弓ト片戈四目糸艸虫羽竹里
辛車臼門犬足馬骨
日月火水木金土

いっすんのはば なべぶたしんにゅうははこがまえ かたなぬくひと
かりはやまさと だいしょうのじょし くちいいこころにて
ゆみとかたほこ よつめいとくさ むしのはねたけのさと
しんしゃきゅうもん いぬのあしうまのほね
しちよう

「この基本見出しの数が51なので、それをある程度網羅できるように考えながら、漢字50字を選びだしたんです」

こうして、漢字・ひらがな・カタカナ・数字・記号をあわせて176字がコンテストの課題となった(第3回からは、応募部門を従来どおりの内容の和文部門、欧文部門、約物・記号部門の3つに分けた)。その内容は、次のとおりだ。

石井賞・創作タイプフェイスコンテスト課題。第2回応募要項より

1970年に発表された、記念すべき第1回目の第1位に輝いたのは、名古屋の中村征宏氏による「細丸ゴシック」だった。この書体は、のちに写研から「ナール」として文字盤が発売され、一世を風靡した。

第1回石井賞創作タイプフェイスコンテストで1位になった中村征宏氏の「細丸ゴシック(のちのナール)」『写研19』(写真植字研究所「写研」編集室、1970年5月)

第2回コンテストの応募要項には、〈第一回の応募作品を概括してみると、ボディタイプ(本文用文字)が圧倒的に多く、ディスプレイタイプ(出版物や広告の見出し用文字)は少なかったようです。ボディタイプだけでなく、ディスプレイタイプの作品がもっと出されることが各界より望まれています〉と書かれている。(*2)

「これ以降、石井賞創作タイプフェイスコンテストから、多彩なデザインの書体が生まれ、発売されました。それはもう画期的な書体の数々でしたから、写研は『よい書体を数多くつくっている会社』と強く印象づけられていきました。書体のデザイン化が加速し、写研は2年に一度、写研フェアという展示会を開いて、次々と『新書体』を発表するようになっていったのです」 (つづく)

(注)
*1:『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』(写研、1975)P.125

*2:「第2回石井賞創作タイプフェイスコンテスト」応募要項『写研22』(写真植字研究所「写研」編集室、1971年4月)P.22

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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