「カレー沢薫」の記事

カレー沢薫

カレー沢薫(かれーざわかおる)

漫画家・コラムニスト

1982年生まれ。デビュー作は「クレムリン」(2009年)。マイナビニュースでの連載を文庫化した「もっと負ける技術 カレー沢薫の日常と退廃」は、講談社文庫より絶賛発売中。(Twitterアカウント: rosia29)。

著書は、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「やわらかい。課長起田総司」(2015年)、「ねこもくわない」(2016年)。コラム集「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年~2018年)、コラム集「ブスの本懐」(2017年)、「やらない理由」(2017年)、「カレー沢薫の廃人日記 ~オタク沼地獄~」(2018)など多数。切れ味鋭い作品を次々と生み出している。
鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

カレー沢薫の時流漂流 第32回

鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

当たり前の便利が限界を迎えつつある「コンビニ24時間営業」問題

カレー沢薫の時流漂流 第31回

当たり前の便利が限界を迎えつつある「コンビニ24時間営業」問題

2019.03.11

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第31回は、セブンのFC店舗に端を発した「コンビニ24時間営業」問題

都会のコンビニでは、もはや店員が日本人であることの方がレアになってきた。様々な国の人がレジについており、漏れなく私より日本語が上手い。

私より会話が不自由な人は未だかつて見たことはないが、まだ日本語に不慣れな外国人が業務についていることもある。そういう人に入ってもらわなければいけないほど、今コンビニ業界は人手不足なのだ。

この空前の人手不足により、コンビニ本部とフランチャイズ店オーナーとの諍いがついに表面化することとなった。

大阪のセブン-イレブンが本部の許可なく時短営業をしたとして、本部は同店に対し、フランチャイズ契約の解除通知と1700万円の違約金を請求したという報道があった。これに関しては「そこまではしていない」との報道もあるのでまだ不確かではあるが、とにかくオーナーの一存により時短営業をしたことで、本部と揉めたことだけは確かなようである。

何故同店のオーナーが時短営業を強行したかというと、ただでさえコンビニの人材確保が難しい中、妻がガンになり、再三本部に時短営業や人材派遣を申し入れたが聞き入れてもらえず、そのうちに妻は死去。妻の死後も1人で何とかやってきたが限界となり、本部の許可なく時短に踏み切ったという。

この話だけ聞くと、コンビニ経営は「24時間営業沼」というハリーポッター級の地獄ニューアトラクションであり、セブン-イレブン本部は鬼ということになる。

実際、オーナー側に同情の声が多く寄せられたのだが、世論がどちらかに偏ると必ず「逆張り」をしたがる人間がでるため、この騒動でも「そうは言ってもこの親父の接客もなかなかクソでしたよ」というネット特捜班による一石が投じられ、いつものインターネット泥レスへと発展していった。

だが、たとえここのオーナーの接客が、ガリガリくんをチンした上に箸をつけるぐらいクソだったとしても、24時間営業の是非とは別の問題だ。人手不足によって24時間営業が厳しいと感じている店舗は、オーナーのクソ具合に関わらず多いだろう。今回の店舗を封殺したところで、今後同じような24時間営業をめぐる本部とFC店との争いは増えて行きそうだ。

“24時間厨”が変わらざるを得ない時代

だがそれ以前に、「コンビニはオーナーの一存で経営時間を変えてはいけない」ということを初めて知った人も多いのではないだろうか。

確かにセブン-イレブンのフランチャイズ契約には、要約するに「うちの名前で商売するからには年中無休で24時間営業してもらう」旨が書かれているのだ。それに合意したからには、どんな事情があっても勝手に時短するのは契約違反となり、もし訴訟になっても、オーナー側は不利だという。

しかし、本部側も店舗経営者に「予期せぬ事態」が起こった際は援助を出すという義務がある。実際、件のオーナーの妻が亡くなる1か月前や葬儀の際には、本部の人間がヘルプとしてシフトに入ってくれたようなのだが、それ以上の援助は受けられなかったという。

つまり、「予期せぬ事態が起こった時の本部からの援助」というのはオーナー側が期待するほど得られないようだ。中には親の通夜を抜け出し、泣きながら勤務した人もいるという。客にしてみれば、コンビニが閉まっていることより「レジの奴が何か泣いてる」方が事件である。

ここまで来ると「そこまでして24時間営業しなくていいじゃない」と思う人も多いと思う。それに対し、「実は俺もそう思ってた」といち早く言い出したのはファミマである。社長が「24時間営業は無理してやらなくていいと思う」とインタビューで答えていたり、すでに「ファミマだけど24時間営業をやめてみた」という「実験店」もあったりするそうだ。

それに対し、強固な24時間厨であったのがセブン-イレブンだ。セブン-イレブンとしては「24時間営業」というコンビニ最大の売りであるイメージを崩したくないのと、コンビニは「社会のインフラ」であるということを理由としている。

確かに有事の際でも開いているコンビニは頼もしい存在だが、別に国からインフラとしての援助などはもらっていないのだ。要するに、時給1000円以下のバイトが、災害時に「社会のインフラ」としての責務を負わされていたりするのである。さすがにそれは荷が重すぎる。

逆に、コンビニが便利過ぎるが故に、我々もコンビニに公僕級の働きを求めるようになったため、セブンが24時間にこだわるようになったと言えなくもない。しかし、24時間を固持していたセブン-イレブンも、今回の騒動で「24時間じゃなくても良い」という声が高まったかどうかはわからないが、一転して「24時間を見直す実験をする」と発表している。

実際、コンビニが24時間営業じゃなくなったら、最初のうちはやはり不便だと感じるだろうし、文句の一つも言うだろうが、その不便にもいつか慣れるだろう。

だが、ひたすら不便に耐えて未曾有の人材不足を乗り越える、というのも時代に逆行している気もする。都会のコンビニではセルフレジが導入されているところもあるというし、国内外で無人コンビニの実験も行われていると聞く。

「人間のムリによって成り立つ便利」をなくし、AIやロボットなどの技術を使った「新しい便利」を考えていくべきだろう。

老後がどんどん遠くなる「70歳定年」試算

カレー沢薫の時流漂流 第30回

老後がどんどん遠くなる「70歳定年」試算

2019.03.04

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第30回は、老後自体が短くなる「70歳定年」試算について

2月初旬、経済財政諮問会議で、定年年齢を70歳まで引き上げた場合の経済効果に関する議論が始まった。その結果、就業者が217万人増え、消費は4兆円増加し、社会保険収入も2兆円は増える、という「明るい未来」を示す試算が出たそうだ。

我々が70歳まで働かねばならないという前提の時点で全く明るくないのだが、国民が暗くなる分、国の財政は明るくなる、ということである。

70歳まで働けば、それだけ年金保険料を納める期間が長くなり、逆に年金給付の期間は短くなるため、年金問題も改善される。お前らの年金は、お前らが老人になってからも働いて解決しろという、本末転倒、良く言えば逆転の発想だ。そして就業人口が増えれば、金を持っている人間も増える、つまり消費も拡大するという寸法だ。

この試算についてはすでに識者から様々なつっこみを受けている。

まず「誰も70歳まで働きたいと思ってねえ」というのは、識者じゃなくてもわかる。現時点でも、働いている高齢者の働く理由を調査したところ半数以上が「生活のため」と答えてたという。

つまり生きがいや健康の為に働いている者は少数派であり、働かないで済むなら働きたくないのだ。私など二十代の時から働かずに生きたいと思っていたのだから、高齢者がそう思うのは至極当然である。

つまり、日本は、高齢者を支える体勢が出来ていないのに寿命だけが勝手に延びてしまったため、70歳まで働ける社会ではなく、70歳まで働かないと国ごと転覆する社会、になりつつあるのだ。それを前向きな変化と評するのはドM国家すぎるのではないか。

そして、高齢者たちが働きたくないのはもちろんだが、企業だってそんなに高齢者を積極的に雇いたいとは思っていないのだ。労働力として若い方が良いのは当然として、雇用期間が長くなるほど、給与支払や会社の社会保険負担の額が増える。つまり、定年が延びれば延びるほど企業の負担が増えるのである。

企業としては、日本の老に高い給与を払い続けるよりは、海外の若を安く使ったほうが良い、というのが本音ではないだろうか。

それに、「最近の高齢者は元気」と言っても、やはり若者よりは肉体的に衰えている。現場が高齢者だらけになると、逆に生産性が落ちたり、最悪事故が頻発したりするようになるかもしれない。

若者に足手まとい扱いされながらも無理して働いて、労災に遭うというのは、明るい老後とは言えない気がする。

人生100年、計画性がないと老後詰む時代

このように、多くの企業では歓迎されないと見られている定年70歳制度だが、70歳と行かないまでも、定年の延長をすでに取り入れている企業もある。代表的なのが「トヨタ自動車」である。だがこれは、「ただし技能系社員に限る」制度のようだ、自動車製造はオートメーション化されているようで、意外と人間のテクによるところが多く、その技能を持った人材は常に不足しているのだ。

つまり、老になってもスキルがある人間は企業にとっても惜しい、ということである。70歳まで働かなければいけない世の中では、今まで以上に「手に職」が大切になってくるということだ。

人生100年時代というのは、寿命が長いからゆっくりできるわけではなく、相当若いころから人生設計を考えていないと老後詰む時代、ということである。早めに絶対なくならない業種の資格を取るか、これからアツくなりそうな業界の勉強を始めるという先見の明も必要となってくる。これから激アツになりそうなのは葬儀関係だが、残念ながら葬儀業に必須となる国家資格はないようだ。

「全員が70歳まで働けば国は良くなる」という政府の試算も楽観的だが、我々も70歳まで働けるんだからいいや、と思うのはスイートすぎる。たとえ全ての企業が定年を70歳まで引き上げたとしても、自分に70歳まで働ける身体があるかはわからない。

一言で70歳と言っても、まだまだ働けそうな二十歳くらいに見える70歳もいれば、明らかな「秒読み」段階に入っている、とても働くどころではない70歳もいるのだ。

老化やそれに伴う病気などは誰の身にも降りかかることだし、運要素も強い。それを「70歳まで働ける身体を作っておかなかったのが悪い」という、凄まじいロングスパンな自己責任を求められる国はどう考えても明るくない。

やはり、どれだけ長く働くかより、体も頭も動くうちにどれだけ準備できるかの方が個人にとって重要だろう。

などと論じたててみたが、私は無職なので企業の定年が何歳になろうと関係ない。この長寿時代、定年がない自営業やフリーランスの方が強いと言われることもあるが、70歳どころか年齢問わず、明日仕事がないかもしれないのがフリーランスだ。

つまり失う仕事すらない「無職」が最強なのだが、少なくとも定年まで働けるという点では会社員という立場には大きなメリットがある。

ただそのメリットに気付けるのは、大体「失ってから」である。

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