藤田朋宏の必殺仕分け人

米津玄師『Lemon』の「ウェッ」に寄せて

藤田朋宏の必殺仕分け人 第5回

米津玄師『Lemon』の「ウェッ」に寄せて

2019.04.26

米津玄師「Lemon」の大ヒットに見た、時代の転換点

「自己表現」できるのは、芸術や音楽には限らない

仕事にも、自分なりの「ウェッ」がぜったいに必要

今更、一年以上前にリリースされたヒット曲の話で恐縮なのだが、平成が終わり令和が始まる今だからこそどうしても書いておきたい話がある。

この10年ほど国民的ヒット曲が生まれてこなかった中で、2018年の3月にリリースされた米津玄師さんのLemonは、久しぶりに年代を問わず「この曲なんか良いね」と受け入れられ、多くの人が口ずさんだ曲だった。

この曲、聴けば聴くほど(プロはすぐにわかるのでしょうが)、ありとあらゆる側面から考え抜かれた曲であることがわかる。こんな音楽理論を手玉に取るような技工を凝らしたとんでもない曲を、なんだか耳馴染みのよい大ヒット曲にまとめ上げる米津氏の才能は本当に凄まじい。

――などと小難しい感想を述べたが、当記事で言及したいのは、曲中にさし込まれている「ウェッ」についてである。

日本国民が考えた「ウェッ」の必要性

私だけでなく多くの人が、最初は「なんだこれ?」「このウェッはいらねーだろ」と感じると思うのだが、Lemonを聴けば聴くほど、この曲と歌詞には「ウェッ」が必須であり、すべての「ウェッ」が不規則に、でも、考えつくされたポイントにだけ入っていることがわかる。

ググってみると音楽理論からこの「ウェッ」の必然性を解説してくれている人もいて、なるほど、そういう理屈なのかと感心させてもらえるのだが、米津氏当人はこの「ウェッ」に関しては、「頭の中で鳴っていたのだからしょうがない」と語っていたらしい。

この「ウェッ」が、理屈で考え抜いた上での「ウェッ」なのか、天才であるがゆえの「ウェッ」なのかなんてことを議論してはいけないと思うし、もし「ウェッ」がなかったらLemonはこんなにヒットしたのかという議論にも意味はないだろう。

ただ、来る日も来る日も作曲で頭がいっぱいの天才が、Lemonという曲には「ウェッ」が必要だと思った。それで十分なのだ。

その結果、凡人が、あとからあらゆる角度でこうして「ウェッ」について想いを馳せる機会を与えてもらったのだから、ただそれだけで幸せな話だと私は考えている。ウェッ。

芸術も音楽も仕事も、どれもが「自己表現」だ

ところで、このLemonという曲「ウェッ」だけでなく、和音のとり方からいろいろなところで、一般的な音楽理論から外れているらしい。予定調和のコード進行から意図的に外したコード進行が、この曲の不安感や情緒感、何度も聴きたくなるスピード感を生んでいるのは、音楽理論がよくわからない素人でもなんとなくわかる。

作曲に限らず、あらゆるハイレベルな芸術作品とは、中世から組み立てられた理論体系を踏まえた上で、その理論体系をどう超え、そこに一味加えるかを楽しむものなのだと私は思っている。

まれに何も知らない天才が現れて、素晴らしい作品を遺す場合もあるが、論理体系を学ばない天才は、数多くの作品は残せない。本物の天才とは、過去から現在、そして未来へと続く文脈を踏まえた上で、「今、生きている自分をどう表現するか」を考え、かつ生活の何もかもを捨てるほどに執着して、作品を遺す人たちなのだと思う。

だが、はたしてこれは芸術作品だけの話だろうか。きっと読者のみなさんがしている日々の仕事にも、どこかに自分自身を表現する余地は残っているはずだ。

私がいつも考えているのは、実は多くの仕事には芸術作品的要素があり、仕事を通じて自分を表現する方法はたくさんあるということだ。ましてや私が日々携わっている、スタートアップ・ベンチャーの立ち上げなんて、「個人の存在の証明」という動機なしでは成功し得ないものだと確信している。

がんじがらめの社会を作り出した「平成」

平成の30年間は、さまざまな分野で組み上げられてきた理論体系を踏まえた上で、そこからはみ出し、自己表現しようとする人間を排除することが「正義」とされてきた時代だったように感じる。

他人が作った「モノサシ」に自分を合わせ、その意味を考えることなく自分を枠にはめることで、立派な会社に就職でき、出世し、家族を養い、幸せな人生を送れる――。そんな人をせっせと増やしてきたのが平成という時代だったのではないだろうか。また、そういった価値観で過ごしてきた人たちからすると、一般的な理論体系から少しでも外れて自己表現しようとする人の努力は「絶対悪」として認識されてしまう。

もし、そういったタイプの上司を持ち、自分の作品に良かれと思って「ウェッ」を足そうものなら、作品だけでなく、人格まで否定されて組織から排除される。読者の方にも心当たりのある話だと思う。

自分の人生を形作ってきた価値観を脅かすような輩がいたら、徹底的に排除する。そうすることになんの躊躇いもないのは、誰かが作ったモノサシに自分を合わせ続けてきた彼らの自我を保つために仕方のないことなのだろう。

社会を円滑に回すには、そんな真面目で立派な人も一定の割合で必要だろう。また、その多くの人がいい人なのだとも思う。しかし、そんな人ばかりに社会の実権を握らせるだけでなく、「その価値観こそが正義である」という社会すら形成してしまったのが、平成という時代だったように感じるのだ。

令和は「ウェッ」を入れることが許される時代になるか

私自身はそういったタイプの人の存在も認めている。たとえ経済的に落ち目であっても、平和で安全で素敵な国を作ってきた仲間としてリスペクトもしている。

しかし、スタートアップ企業の立ち上げを通じて、日本だけでなく世界に新しい価値観を展開することに人生を捧げている立場からすると、通り一辺倒の理論体系に判断のすべてを押し込めようとする価値観を一方的に強要されたり、「どちらのモノサシが正しいか」といった議論することは、時間の無駄でしかない。

理論から外れることを良しとしない価値観の延長線上には「ウェッ」というアイデアは決して生まれないのだ。

私は、自分の仕事にも自分なりの「ウェッ」を織り込んでいきたいと日々努力・奮闘しているが、表面上の理論体系に外れているというだけの理由で「ウェッ」を取り去ろうとする価値観の人に、「ウェッ」の必要性を論理的に説明するのは自分の美学に反する。そもそも、そんな時間は人生の無駄遣いだとさえ思う。

平成という時代は、社会全体が効率化を求める時代であり、常に単一のモノサシだけで測られる感覚が窮屈で仕方なかった。この時代の最後に、多くの人が「不必要なのでは?」と感じる「ウェッ」が入った曲が大ヒットしたという事実は、間もなく始まる「令和」の時代が、より自己表現をしやすくなる時代になる兆しなのではないかなどと期待している。

私も社会の中で徐々に年長者の立場になってきている。令和の時代は、一人ひとりの「ウェッ」を、社会の中で表現しようと奮闘している人達の努力が、ポジティブに受け止められる時代になるように、少しでも貢献したい。

米津玄師『Lemon』の「ウェッ」に寄せて

(文・イラスト=藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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ワンピースに学べ! 「官民ファンド役員辞任騒動」で報道すべきだった、真の論点

藤田朋宏の必殺仕分け人 第3回

ワンピースに学べ! 「官民ファンド役員辞任騒動」で報道すべきだった、真の論点

2019.01.09

ちとせグループCEOの藤田朋宏氏による連載

第3回は、「産業革新投資機構の騒動」について

何事も「正義と悪」で語りがちなマスコミの報道に思うこと

「なんだか勿体ない報道だなぁ」

産業革新投資機構(JIC)の経営者の方々と経済産業省に関する報道を見て、そんなことを感じました。官民ファンドであるJICの役員が報酬水準をめぐって所管の経産省ともめ、田中正明社長をはじめとする民間出身の取締役が全員辞任するという出来事でした。

僕が勿体ないと感じた原因は、マスコミの多くが勝手に「偉いおじさんは悪い」という前提を設定したストーリーばかりで報道していたことです。こうした報道は、本来の報道のあるべき姿を逸脱しているのではないか、と僕は思うのです。

産業革新機構の田中正明社長は、経産省との対立が原因で、社外取締役ら民間出身の9人の取締役が全員辞任し、新規投資を凍結すると発表した(画像は経産省外観)

前時代的な「わかりやすい悪人」がいるストーリー

僕が子供のころは、子供が見る番組は味方と敵の関係が単純な作品ばかりでした(ちなみに僕は人口ピラミッドで一番多い45歳)。当時は、顔が青くて感情が無さそうな宇宙人や、見るからに悪そうな顔で悪そうな喋り方をする怪人が地球征服を企んでいるような作品ばかり。大して悪いこともしていない敵を爆破して、みんなで勝利を喜ぶという単純なストーリー展開が、敵役が可哀そうでどうにも好きになれない子供でした。

僕と同じように感じる子供も多かったのか、それとも作っている側の大人が飽きたのか、恐らく初代のガンダムくらいから、子供向きの作品にも、「主人公にも敵役にもそれぞれの正義が存在する」という価値観の作品が増えたように思います。

それから数十年が経ち、今や国民的作品であるワンピースに至っては、敵役の海軍の背中にデカデカと「正義」と書いてあります。子供向け作品でさえ、「どっちが正しいか」という子供じみた議論はせず、「正義vs正義」の構図で話が進んでいきます。平成に入って、「価値観なんてもんは人の数だけあるんだ」っていう当たり前の事実を子供でも知っている国になったわけです。

にも関わらず、何かあるたびに日本のマスコミの多くは、誰か悪役を仕立てないと報道できないルールでもあるかのように、単純なストーリーの報道ばかりしています。

正義を一つに絞らないと視聴者が理解できないと思っているのか、はたまた報道の形を取りながら自分の考える正義で日本を染めたいと思っているのか。どちらが理由なのかはわかりませんが、こういった人による価値観の差異を雑に扱うスタンスで届けられる報道を見るたびに、「このテレビ局の人たちは視聴者を子供以下の理解力の持ち主ばっかりだと思っているんだろうな」なんてことを感じるのです。

もう平成も終わるわけですが、いつになったら彼らは、怪人を爆破して喜んでいた時代の価値観で報道をしていることに気づくのでしょうか。

そこには本当に「悪役」がいるのか

そもそも、JICの経営陣は彼らが考えるあるべき姿と何が違かったのかを自分たちの言葉で発表していましたし、経産省も世耕大臣が代表して自分の考え方をしっかり述べていました。

登場人物が、それぞれの価値観でそれぞれの言葉で「日本をより良くするためにはどうしたらいいか」という意見を言っていたのです。これはとても立派な態度と行動だったと思います。

僕は、こうした健全で建設的な議論から逃げないことが、今の日本にとって最も大事なことだと考えています。しかし、世の中ではこういった議論がオープンになされたことそのものを問題視して、監督官庁である経産省を責める声も多かったように感じます。

論点を明確に定義して、オープンに議論して、混乱を詫びた上で辞任するって素晴らしいことじゃないですか。国の中枢のところでああいったオープンな議論が行われる国って、素晴らしい国だと僕は思うんですよ。揉め事は有ってはいけないのではなく、健全で建設的な議論をしようと思ったら、揉め事を避けてはいけないと思うのです。

せっかく、経済界で名前の通った人たちが個人的なレピュテーションリスク(企業の信用やブランド価値が低下し損失を被るリスク)を恐れず進退を賭けて問題提起してくれたのだから、短絡的にどっちが正しいとか、どっちが間違えているとかいう結論を出すことを目的としない、建設的な議論を続ける努力をするのが報道の役割だったのではないでしょうか。

しかし、実際のマスコミの報道を見ていると「なんだか偉い人がもっと給料くれって言って喧嘩している」的な、極めてクダラナイ議論に矮小化されて報道され、エリートが私欲で喧嘩している的なネタとして消費されてしまったことが、とても残念でした。

「正義と悪」を決めつける報道は、正義か悪か

ちなみに、同時期に話題になっていたニュースに、某自動車会社の有名な経営者が「莫大な社費を流用しているvsしていない」という報道もありました。テレビのワイドショー的にはこちらも「エリートが過剰に給料を多く欲しがっている話題」として一括りにされていましたが、こちらには建設的な論点は何もありません。

このような非建設的な話をダラダラと報道しみんなで議論しても、なんの意味もないと僕は思うのですが、こっちの件の方がマスコミ的「悪役」が設定しやすいからなのか、年が明けても未だに盛り上がってます。

なんだか「新たな国民の悪役」を皆が欲しがって消費している「残念な国」になっている傾向が、年々強まっているような気がしています。

ここで忘れてはならないのは、ワンピースが「正義vs悪」という対立軸を設定しないままでも、20年以上も国民の関心を引き続けているということです。少年ジャンプを読む小学生でも、あの何百人のキャラクターのそれぞれが有する価値観の差を理解できるのが、今の日本国民の認知レベルなんだと思います。

つまり、報道する側に尾田先生のような人物の価値観を魅力的に描き分ける技術があれば、JICの件でも視聴者を惹きつけるコンテンツは作れたはずなんです。

今回のように、対立する双方がそれぞれ建設的に意見を言っているコンテンツなんてそうはありません。前向きな議論やさまざまな立場の価値観を紹介するうちに、国民全体が日本経済をどうしていくべきかについて、一人一人が意見を持てる国に自然となっていくはずなのです。

毎月のように発掘されて、新たな国民の敵として設定されてしまう悪役に、毎日さらに新しい角度から悪口を見付けた人が頭が良く見えるような、そんな安易な報道コンテンツに逃げずに、いろいろな人の価値観を整理しそれぞれの価値観を魅力的に見せることが、優秀な人が高給をもらっているマスコミに期待すべき役割だと思うのですよ。

報道のストーリーメイク、4つの改善策

では、今回の件はどういうストーリーで報道すれば良かったのか、誰かに意見を言う時は「それじゃダメだ」に留めず「例えばこうしてみるとか」まで付け足すことをモットーに生きているので、勝手に4点考えてみました。

1点目:結論を出さないことを恐れない

報道の役割は「複雑な問題に、誰でも同意できるような短絡的な答えを提示すること」とかいう、おかしなプライドを持っているからコンテンツの魅力が減ってしまうのです。理解が難しい、しかし根源的に大切な問題は、短絡的な答えを出さず難しいまま放置しておく方がストーリーとしての魅力は増すのです。

ワンピースだって、「そもそもワンピースってなんぞや」「海賊王ってなんぞや」って根源的な命題には何ひとつ答えないまま、連載が続いているわけです。短絡的に答えを出す単純なコンテンツでは、もう子供でも楽しめないのです。

つまり、「官民ファンドってなんぞや」ってところがこの議論のラスボスであることは明示しつつも、「その説明は、どうやら登場人物によって理解が違うようだぞ」というままにする報道戦略であれば、このテーマはもっと人々の興味を引けたのではないか、と僕は思うのです。

2点目:論点は給料の「額」ではなく「出どころ」

官民ファンドとはなんぞやという本質をふんわりさせたままにしておく前提で、本件ステークホルダーの意見の相違の理由は、「ファンド運用者の給料は、元本から出されるのか、儲けから払われるのか」という点にあります。しかし、僕がみた限りの報道で、給料の出どころについての理解が違うことに言及した報道は一つもありませんでした。

具体的には「税金で用意した2兆円から給料を払うのだから一般的な公務員と合わせるべきだ派」と、「成功報酬は投資で儲けた額から払うのだから一般的な投資企業と合わせるべきだ派」に整理できたはずです。それから適切なタイミングで「給料の出どころは税金じゃないと思うけど、国で用意した2兆円がなければ投資成果も出せないんだから中庸が正解だ派」を登場させます。

それぞれの案に対して適切なキャラクターを設定できれば、サラリーマンの昼飯の話題だけでなく、高校生の部活の話題にまででき、それがあるべき日本経済のあり方を一人一人が意識するキッカケにまでできたはずです。この「そもそもどこから給料を払っているかの認識の差だよね」っていう整理をちゃんとしている報道、見かけましたか?

報道のポイントであった「給料」、その出どころについて多く語られた報道は少なかった

3点目:「2兆円なんてちっちゃい」という事実

そもそも「2兆円」という運用額の大小も重要です。無駄にデカイ数字が出てくると話が盛り上がる手法は少年ジャンプが発明した優れた手法ですが、これは小学生だけでなく、大人にも通用します。日本人は、「私はあなたより強いです」と言われるよりも「私の戦闘力は53万です」と言われるほうが、ストーリーに感情移入できるように調教されているのです。

ここで僕が皆さんと共有したいのは、国が運用するファンドとして、2兆円はかなり小さいということです。例えば、ソフトバンクビジョンファンドは10兆円規模、日本の15分の1のGDPしかないシンガポールの国営ファンドであるGICやテマセクは、それぞれ10兆円以上運用していると言われていますし、アメリカなんかでは二桁兆円のファンドなんてザラです。日本生命でも60兆円くらいは運用しているはずです。

「そうか、2兆円ってちっちゃいのか」って驚きが、この議論をより深めたはずなのです。

そうすれば、「あのおじさん達は、ちっちゃい規模のファンドなのに国のために頑張ろうとしていたのか」「ちっちゃいファンドだから成り手がいないのか」「ちっちゃいファンドなんだから給料安くていいんじゃない? 」「そもそも日本がそんなちっちゃいファンドサイズで恥ずかしくないのか」などなど、いろいろな議論が生まれたことでしょう。

ソフトバンクビジョンファンドの概要。(写真は2016年11月開催の決算説明会)

4点目:本当の登場人物はみんな魅力的

最後に、そもそもこのストーリーに出てくる人を、全員かっこよく描くべきでした。だって実際かっこいいんだから。本物以上にかっこよくしたらそれはエンターテイメントの範疇ですが、だからといって、本物よりかっこわるく報道する必要はないはずです。

僕は経産省と産業革新機構、どちらの組織とも一緒に仕事をする機会が多いです。ここで繰り返し声を大にして言いたいのは、こういった組織で働くみなさんは本当に、日本の国を良くするためにいつも一生懸命だということです。

価値観や正義感は人それぞれですが、若い人からベテランまでどの人も、本当に一生懸命働いています。大衆が虐めることで消費すべき対象ではなくて、国のために奮闘するかっこいい人達なんです。にもかかわらず、時代錯誤の「エリートってのは悪いことしているに違いない」という大前提での報道が目についたのが、今回の最も残念なところでした。

それぞれが足を引っ張るような報道ばかりしているから、日本はいつまでもデフレマインドから抜け出せないんだよ、と思うのです。

「大物おじさん=悪」と決めつけては勿体ない

また、今回辞任された皆様とは直接面識はないのですが、彼らと同じような経済界の大物のおじさんたちと話をさせていただく機会は、僕の日々の仕事でそれなりにあります。こういった、双六でいえばすでに「上がった」ような人たちこそ、日本をより良くするために、人生の残り時間で何ができるかと本気で考えている人が多いと感じています。

こういった(大物)おじさんたちって、そりゃあ一癖も二癖もある人ばかりですよ。でも基本的には一本筋の通った面白い方々であることが多いし、だいたいみんな愛嬌があります。そう言ったおじさん達を、マスコミが嵩にかかっていじめて何か建設的なことが起きるのでしょうか。

「大物おじさん=悪人」と定義して消費してしまうのは簡単です。しかし、こういった人たちを愛して、彼らが何を言っているのかを少しでも理解しようとし、「本来どうあるべきだったのか」という観点で前向きな議論をすることが、この記事をうっかり最後まで読んでしまった皆さん一人一人の生活を、さらに楽しいものすると信じています。

さらには、近年の日本でよく見られる報道の姿勢が「誰かを悪役に設定し、複雑な議論に短絡的な結論を出す」ものから、「一人一人の価値観を整理し、単純な悪役を設定しない」ものに変わったとしたら、この国はもっとずっと楽しくなるのになぁ、と思うのです。

双方が建設的な議論をしているときは、一旦、「どちらも正しい」と受け止め、理解しようと心がける姿勢が大事。というのが筆者の意見です

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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