活字・写植・フォントのデザインの歴史 – 書体設計士・橋本和夫に聞く 活字・写植・フォントのデザインの歴史 – 書体設計士・橋本和夫に聞く

まさかの連続受賞

1974年(昭和49)、第3回「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」の結果が発表されると、人々はふたたび驚きに包まれた。スーボで第2回の1位を獲得した写研社員の鈴木勉氏が、もう一度1位に輝いたのだ。20代前半の若手(当時25歳)、それも主催社の社員が2回連続で1位を受賞したのである(応募点数238点)。

鈴木氏は新書体の開発に意欲的だった。スーボの発売に向けて、チーフとして社内制作チームを指揮しながらも、第3回コンテストへの応募準備を進めていたのだ。

第3回の1位となった作品(のちのスーシャ)は、前回のスーボとはおおきく印象の違う、シャープな表情の横組み専用書体だった。

スーシャ(横組み専用)

その制作意図は次のとおりだ。

〈元来日本の文字は縦書き用であるが、現在では横組が相当多くなってきている。しかし、印刷文字においては同一文字を縦横兼用にしているのが現状である。そこで、横組用文字の制作を試みた。(1)横への視線を滑らかにするために正斜体(傾斜角度約86度)とした。(2)横線については、縦線が傾斜している関係で右下がりに見える欠点を矯正し、右上に抜けるような筆法にした。(3)従来の細明朝体よりも力強さを出すため、縦・横の太さの差を少なくした。(4)ベースラインを揃えるため、文字間の重心を下げた〉

2回連続の1位入賞を、橋本さんは「偉大」と讃える。

こうしてスーシャも商品化されることとなり、鈴木氏は20代半ばにして大量の原字を制作することになった(コンテストの応募作品は約200字。書体として発売するには、これを約6000字に増やさなくてはならない)。少しでも制作期間を短くするためにチームが組まれ、鈴木氏がチームリーダーとなった。

当時の原字課は、課長の橋本さんの下に4、5人がいくつかのチームを組んで、文字制作にあたっていた。

「各リーダーのもと、チームごとに机の島をつくって作業していました。鈴木くんもそのリーダーの1人でした。写研が多書体化するにつれ、それぞれ3、4書体を並行して制作しました。書体の統一性や品質の安定性と、生産性などを考慮して、1チームが4、5年で数書体を並行して担当するようにしたのです」

スーシャは商品化にあたり、組み合わせて使えるようゴシック系見出し書体のファミリーも同時に開発された(のちのスーシャB、ゴーシャE)。鈴木氏がリーダーを務めたチームで約5年をかけて3書体の原字を制作したのだ。

スーシャB(上)とゴーシャE(下)

書体名の「スーシャ」は「鈴木さんの斜体」を縮めたもの。「ゴーシャ」はその「ゴシック版」ということで名づけられた

1979年(昭和54)年に発売されると、スーシャ、ゴーシャとも、広告媒体やテレビのテロップなど幅広い場面で用いられる書体となった。

驚きの依頼

業界1位の写研が開催するコンテストにおいて、2回連続で最優秀賞に輝いたことは、快挙だった。書体・印刷関係者以外にも注目され、鈴木氏の記事が新聞や週刊誌に掲載された。朝日新聞の「ひと」欄に掲載されたインタビュー(1974年6月5日付)では、賞金100万円の使いみちについて「私も年ごろ、相当部分は結婚資金になるんでしょうねえ」と答えた。(*1)

そんなある日、橋本さんは鈴木氏から予想外の依頼を受けた。「結婚式で媒酌人をしてほしい」という頼みだった。お相手は同じ写研社員で、スーボの制作チームにいた女性だった。

「鈴木くんは、よく家に遊びに来てくれたんです。ぼくは1963年(昭和38)に結婚したあと、会社近くの巣鴨に住んでいました。写研に入る前から始めた写真の趣味はずっと続いていて、自宅に押入れ暗室をつくって現像していたのですが、その手伝いに来てくれたものでした」

公私ともに慕っていたからだろう、鈴木氏は橋本さんに媒酌人を頼んだ。媒酌人とは、結婚式や結婚披露宴で新郎新婦の紹介をしたり、2人のサポートをしたりする役のことだ。

「ぼく自身も40歳になるかどうか、というときのことです。まだ若造だというのに、鈴木くんとお相手のお母様が、きちんと着物を着て、家にあいさつに来られた。ぼくだって息子みたいなものでしょうに、親というのはすごいものだなあと、感心するやら恐縮するやら。よい人生経験をさせてもらいました。鈴木くんには輝かしい業績がありすぎて、披露宴では紹介する内容を絞りこまなくてはならないという、うれしい苦労もありました」

橋本さん夫妻はその後、鈴木氏の親しい友人であり写研同期の2組の媒酌人も頼まれたそうだ。

「鈴木くんは結婚したあとも、お正月にはよく遊びに来てくれました。うちの子どもたちも面倒見のよい鈴木くんにはお兄さんのようによくなついて、かわいがってもらったものです」

神のいたずら

20歳で写研に入社し、23歳、25歳でそれぞれ石井賞タイプフェイスコンテストの1位を獲得するなど、はやくから書体設計士としての才能を開花させ活躍した鈴木氏は、1989年(平成元)、40歳のときに写研を退職し、同じく写研を退職した鳥海修氏、片田啓一氏とともに字游工房を設立。1991年(平成3)には制作ツールとしてMacを導入し、ヒラギノ書体の開発などを手がけた。

1995年(平成7)に写研を退職し、フリーランスとなっていた橋本さんに、新たに手がける書体の原字制作を依頼するなど、2人の交流は続いていたが、1997年(平成9)4月、鈴木氏は入院。翌1998年(平成10)5月6日、かえらぬひととなった。49歳という若さだった。

鈴木氏の人と仕事をしのんで制作された『鈴木勉の本』(字游工房、1999年)に、橋本さんはこんな書き出しで寄稿している。

〈「すずきつとむ君」なんと親しみがあり、懐かしさを覚える響きをもった名前で、つい最近まで幾度となく呼んだことでしょう。その鈴木くんを追悼する言葉をこんなに早く綴るのは、全く残念で神の悪戯としか言いようがありません〉(*2)

橋本さんにとって鈴木氏は、ともに書体制作に向き合い、ときに指導しながら、公私ともに深い時間を過ごした後輩だった。橋本さんの代表作とされる本蘭明朝のファミリー化を手がけたのは鈴木氏だった。スーボやスーシャといった個性的な書体から、ヒラギノ書体などのベーシックなものまで。じつに多彩な文字を生み出した書体設計士だった。

「公私ともに、貴重な経験をさせてくれたひとでした」

(つづく)

(注)
*1:「鈴木本」制作委員会編『鈴木勉の本』(字游工房、1999年)
*2:同書 P.97 橋本和夫「鈴木勉くんと私」

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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1位入賞は社員!?

新しい書体デザインの発掘のために開催された「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」(隔年開催)は、1位の賞金が100万円ということでも注目を集めた(*1)。写研としても、少なくとも1位の書体は商品化していくということで、自社の商品ラインナップに関わるおおきな意味をもつ場だった。

1970年(昭和45)に発表された第1回の1位は中村征宏氏のナール。そして、1972年(昭和47)に行われた第2回の1位に輝いたのはスーボという書体だ。デザインしたのは鈴木勉氏(*2)。写研の社員だった。

スーボ

東京デザイナー学院を卒業した鈴木氏が写研に入社したのは、1969年(昭和44)4月のこと。橋本さんが責任者を務める文字盤部原字課に配属された。鈴木氏に初めて会ったとき、坊主頭で礼儀正しいその姿に、橋本さんはデザイナーというより「厳格な武道を志す人のよう」と感じたそうだ。しかし、いざ仕事をしてみるとすぐに、文字のデザインに対して繊細な感覚と技能をもつ人だとわかったという。

その鈴木氏が、23歳、写研入社わずか2年目にして、自社主催のコンテストで1位となった。審査会場で179点の応募作品のなかから鈴木氏のパネルが選ばれたとき、事務局は正直なところ「困ったな」という感想だった。社員が応募してはいけないという規定はない。審査はパネル裏面に記された氏名を隠して行われた。だが、1位獲得となると、どうなるのか。

審議にものぼったが、公正に行われた審査であること、だれもに平等な機会が与えられるべきという審査員の声によって、社員であってもよいと受賞が認められた経緯がある。(*3)

くい込み処理で極太書体を実現

スーボは、それまでだれも見たことがなかったような書体だった。

第2回石井賞創作タイプフェイスコンテストに応募したときに鈴木氏が記した制作意図は、次のとおりだ。

〈写植文字・活字を含め、これといったユニークなディスプレイがないのに着目し、今までにない太さの丸ゴシック体を創作した。従来、太い書体は画数が多い場合、その部分を細くして処理していたが、この書体では“くい込み”の方法をとり、なるべく太さを均一に保つようにした。〉

〈結果的にはこの“くい込み”が面白い効果となったと思う。また、ディスプレイタイプの太い書体は字間が目立つためそれを防ぐ意味で字面を大きくした。利用範囲は限られると思うが、それがかえって印刷物をひきたてることになるのではないか〉

漢字の偏が重なり合う部分や、かなの濁点を重なり合わせることで(くい込み)、太さを均一に保った。

橋本さんは語る。

「極太の画線は線がたてこむとつぶれてしまい、文字として識別できなくなるため、制作ができないと思われていました。それを鈴木くんは、線を重ね、くいこみのデザインをするというアイデアで、文字の識別を可能にしたのです。この丸っこい書体は、『書は体を表す』という言葉のとおり、鈴木くんの姿そのものでした」

鈴木氏の斬新なアイデアでデザインされたスーボは、なんとも明るくユーモラスで、柔らかくおおらかな印象の丸ゴシック体となった。彼を知る人は口をそろえて「鈴木くんのイメージにそっくり」と言った。当時、コンテストの事務局をつとめていた写研の新井孝氏も、こんなふうに書いている。

〈この書体はまさに「書は体を表す」で彼の若き時のイメージにそっくりである。思い切りコロコロ太った柔らかい丸ゴシック、画数の多い文字や濁点がつぶれないように「くい込み」をする細かさ。見かけは豪放磊落だが、本当は神経質な面をもち人にやさしい鈴木君を表しているようだ〉(*4)

1位受賞後、写研社内では鈴木氏を中心に制作チームが組まれ、原字制作が進められた。そして2年後の1974年(昭和49)7月、写研からスーボが発売された。発売されるや、ポスターやチラシ、新聞広告、子ども向け雑誌など、さまざまな媒体で使用される大ヒット書体となった。ふつう、新書体はまず東京で流行し、それが地方に広がっていくものだった。ところがスーボだけは、なぜかまず地方で販売量が伸び、それが東京に浸透していったのだという。(*5)

「以降、スーボは日本のディスプレイ書体におおきな影響を与えました」(橋本さん)

書体名は「スーボ」。「鈴木氏のボールド」という意味だ。この書体名も、「鈴木くんの姿そのもの」といわれる絶妙な名前だった。

(つづく)

(注)
*1:賞金は、石井賞(1位)100万円、2位30万円、3位10万円で各1点ずつ、佳作(若干)は1万円だった。
*2:鈴木勉(すずき・つとむ) 書体設計士。1949年(昭和24)1月、横浜生まれ。東京デザイナー学院卒業後、1969年(昭和44)、株式会社写真植字機研究所(1972年、写研に社名変更)入社。原字制作にたずさわる。1972年(昭和47)、第2回石井賞創作タイプフェイスコンテスト1位入賞(のちのスーボ)。1974年(昭和49)、第3回石井賞創作タイプフェイスコンテスト1位入賞(のちのスーシャ)。ゴーシャ、秀英明朝、ゴナファミリー、本蘭明朝ファミリーなどの制作に従事し、1989年(平成元)写研を退職。同年、同じく写研を退職した鳥海修氏、片田啓一氏とともに字游工房を設立する。以降、ヒラギノ明朝体・角ゴシック体ファミリーなどを制作。1998年(平成10)死去。
*3:「鈴木本」制作委員会編『鈴木勉の本』(字游工房、1999年) P.16-18
*4:同書 P.93 新井孝「『スーボ』誕生の瞬間」
*5:同書 P.103 杏橋達磨「鈴木さんと書体デザイン」

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

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1000字の描き直しを越えて ―ナール制作の舞台裏

最初の書体感覚をもち続けることのむずかしさ

写研で書体デザインの責任者を務めていた橋本和夫さんに衝撃を与えた書体、ナール。作者の中村征宏氏が第1回石井賞創作タイプフェイスコンテスト応募時に書いた設計意図は、次の通りだ。

〈縦組みの場合にも、横組みにも字間のバランスがムリなく一つの流れを持つことを念頭におき、ボディータイプとして、従来使用されなかった丸ゴシック系のタイプフェイスを試みた。字面をいっぱいに使い、文字のエレメントを強調し、細い線で構成することによりシンプルさを求めた。字面を大きく使うことが字間の問題に関連し、字間のバランス調整のための切り貼り、字詰めの工程を少しでも短縮することができるのではないかと思う。その結果、組み上がりにおいて、集合の調和が生まれるのではないかと思う。広告制作物などにおいて、コピーやサブ・タイトルなどに適するのではないかと考える。〉(*1)

中村征宏氏の著書『文字をつくる』(美術出版社、1977年)

1970年(昭和45)5月18日にコンテスト授賞式が開催されたのち、写研からの文字盤発売に向けて、同年8月ごろから本格的な書体制作が始まった。必要な文字数は漢字が約5400字、ひらがなとカタカナで約150字、アルファベット約100字、その他(約物、記号など)約200字で、合計約5800字だ。写研の監修を受けながら、原字はすべて中村氏が描いた。監修を担当したのは橋本さんである。

約5800字の原字を描くのは、想像以上に大変な作業だ。橋本さんは語る。

「コンテストに応募するときに描いていただくのは、漢字50字とひらがなカタカナ、そして記号の一部だけです。それを1枚のパネルに構成するので、文字構成としては、まとめやすい。ところが、文字盤化する際には約5800字を1文字1文字描くことになり、完成するまでの年月は2年はかかります。外部デザイナーの方と書体をつくるようになって、われわれが一番苦労したのは、“今月と来月では、仕上がってくる書体の雰囲気が変わってしまうことがある”ということでした」

「文字を増やす際に字種リストを渡すのですが、『何の文字をつくるか』を見るためのリストのはずが、長い間ながめているうちに、つくっている文字がリストの文字に似てきて、当初のデザインと雰囲気が異なってきてしまった。ナールは既成概念をくつがえす、突き抜けたデザインの丸ゴシック体だったはずなのに、描き進むうちに最初のデザイン思想から離れ、持ち味が失われるということが起きたのです」

原字を描き進めるうち、コンテストのオリジナルデザインから、いつのまにか特徴が変わってしまっていたのだ。そのままでは、まるで違う書体になってしまう。結局、途中で1000字分を描き直すことになった。

中村氏もこのことを振り返り、著書に〈人の感覚は徐々に変化するものには気づきにくいものですから、いつも最初の見本と照らし合わせながら書き進めることが大切です。このようなことは、太さだけのことではなく字形とか感覚面でも同じようなことがいえます。感覚もときがたつことによってどんどん変化するものですが、とくに最初の感覚は大切にしていきたいものです〉と書いている。(*2)

悩ましい文字

「もうひとつ、ナールを監修したなかで、ひどく悩んだことがありました。ナールは、字面いっぱいに真四角に描かれた書体です。たとえばひらがなの『り』は通常は縦長、『へ』は横長の形をしていますが、これらの文字すら、できる限り正方形に近づけて描かれている。ぼくが悩んだのは、『々』という漢字でした」

ナールでは、縦長の「り」、横長の「へ」も正方形にかなり近い

「時々」「常々」「佐々木」など、同じ漢字を繰り返すことを表すときに用いられる「々」の字だ。

「常識的にいえば、この字は他の漢字よりも小さく描きます。では、通常は縦長、横長など固有の形をもつひらがなですら正方形に近づけているナールでは、どういう大きさにすればよいのか? 最初は『々』も他の漢字と同じ大きさで、真四角にするのがよいと思ったのですが、いざつくってみると、やはり少しは他の漢字より小さくしなければ『々』に見えないとわかりました」

「他の書体をつくるときにも『々』をどういう大きさにするか、いつも考えるのですが、ナールのときにはとりわけ悩んだものでした」

また、こうした試行錯誤を経て、「文字を図形化する際も、かなと漢字の使い方に意味のあることをあらためて認識しました」という。

新聞雑誌、広告から、道路標識まで

途中で1000字の描き直しなどがあったものの、コンテストから2年後の1972年(昭和47)、ナールは写研写植機用の文字盤として発売された。書体名は、「中村」の “ナ” と、丸みを表す言葉である「ラウンド」の頭文字 “R” をとって「ナール」とつけられた。(*3)さらに、ナールと組み合わせて使うことを想定した中太の「ナールD」の文字盤も1973年(昭和48)に発売された。

ナールD(上)とナール(下)

中村氏はコンテスト応募当時、ナールを本文書体と考えていたが、いざ発売されてみると、広告や雑誌、新聞などの見出しなどに使うディスプレイ書体として大人気となった。ポスターや広告のキャッチフレーズ、テレビの字幕、道路標識などに幅広く使われ、一世を風靡した。

「タイポスによってデザイナーのつくる書体が注目され、少女たちが丸文字を書くようになっていく流れのなかで登場したナールは、『時代に乗った』ともいえますが、むしろ『時代をつくった』書体といえるでしょう。写植の文字はナールの登場によって、それまで職人が手描きしていたレタリング文字の分野に浸透していった。“新書体ブーム”の幕開けでした。そうして写植の機械は、単に文字を印字するだけでなく、多彩なディスプレイ書体によって雑誌や広告にファッション性を生み出す手段のひとつとして、とらえられるようになっていったのです」

(つづく)

(注)
*1:中村征宏『文字をつくる』(美術出版社、1977年)P.80
*2:同書 P.21
*3:『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』(写研、1975年)P.127

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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