信州に新ヴィンヤード誕生! 海外ワインに対する“反転攻勢”の礎に

信州に新ヴィンヤード誕生! 海外ワインに対する“反転攻勢”の礎に

2017.05.01

2012年頃から盛り上がっているワイン人気。過去にもワインブームは何回か起こっており、2012年から現在まで続くこのワイン人気は、“第7次ワインブーム”と呼ばれている。そして今回のブームは、あきらかに過去のものとは様相が異なる。

まず、過去のブームに比べ、長期にわたりそうな気配をみせている。2012年から連続で過去最大だった1998年の国内ワイン消費量を上回っていることからも、それがうかがえる。しかし、もっともこの7次ブームを実感させてくれるのは、ワインそのものの存在が過去に比べてグッと身近になったことだ。

コンビニのお酒コーナーに占めるワインの面積が増え、ワインを提供する和風居酒屋の存在もまったく珍しくなくなった。特にコンビニで販売されているワインの存在は、ブームの立役者だ。ほとんどが1,000円以下と安価で、なかにはワンコインでおつりがくる商品もある。こうしたワインはチリやカリフォルニア、オーストラリアといったワイン原産国から輸入されていることが多い。つまり、7次ブームの牽引役は海外生まれのワインなのだ。

しかし、国産ワインの存在感もグングン増している。「甲州」や「マスカット・ベーリーA」といった、日本固有のブドウ品種から醸造されたワインを指名するファンも多い。

原料となるブドウ不足の解消へ

新農園となる片丘地区からの眺望。市街地を見下ろせる

とはいえ、問題もある。それはワイン用ブドウが不足気味なこと。原料になるブドウがなければ、ワインの醸造はままならない。

そんななか、国内ワインメーカーの雄、メルシャンが新しくヴィンヤード(ブドウ園)を開園した。およそ2年前、同社が長野県・片丘地区にヴィンヤードを開くと発表し、いよいよ2017年4月27日、“1本目のブドウ苗木”の植栽にこぎつけた。

この植樹式に駆けつけたメルシャン 代表取締役社長 代野照幸氏は「日本ワインの人気は勢いづいています。先日開催された『日本ワインMATSURI祭』 (4月15・16日)では、17都道府県から46のワイナリーが参加しました」と、日本ワインを包む“熱気”について語った。また、「『シャトー・メルシャン』も好調で、2017年の第1四半期では、昨期の14%増という結果になりました」と、手応えを感じているようだ。ちなみにシャトー・メルシャンとは、同社の国産ワインを代表するブランドだ。

植樹式であいさつをする代野社長(左)。最初の1本の植栽は代野社長と小口利幸 塩尻市長の手で行われた

さて、この片丘地区のヴィンヤード開園により、メルシャンは長野県におけるブドウ生産能力の向上を目指す。同社が長野県に展開するおもなヴィンヤードは、1976年からブドウの植栽を始めた桔梗ヶ原(キキョウガハラ)、2003年に上田市丸子地区に拓かれた椀子(マリコ)などがある。片丘地区はこれらに続く、“信州”でのメルシャン管理ヴィンヤードということになる。

では、農園を増やしワイン用ブドウの生産力を上げるねらいは何か。もちろん、不足している国内のワイン用ブドウの生産を補うのが主目的だ。ただ、代野社長は「品質の高い日本ワインの生産力をアップし、海外輸出に大々的にうって出たい」と、その野望を隠さない。つまり、将来の本格海外進出をにらんだ“投資”ということだ。

一方、この植樹式に参加したシャトー・メルシャン 工場長 ゼネラル・マネージャー 松尾弘則氏は、「まず片丘地区では、欧州系黒ブドウ品種『メルロー』を植栽し、いずれはほかの品種にも広げていく。数年後には収穫しカタチにしたい」と話す。

なるほど、まずは実績のあるメルローからか。というのも、前出のヴィンヤード産のブドウで醸造された「桔梗ヶ原メルロー」は、数々の国際コンクールで金賞に輝いたワイン。新しい農園では、得意なところから始めたいということだろう。

シャトー・メルシャン 工場長 ゼネラル・マネージャー 松尾弘則氏。右は欧州系ブドウ「メルロー」の苗木

では、収穫時期についてはどうか。ご存じのとおり、日本は屈指の台風上陸国だ。近年は、台風の規模が大きくなり、上陸の回数も増えている。場合によっては、新ヴィンヤードで育成中のブドウ樹がダメージを負うことも考えられる。何しろ自然が相手だ。予想外の理由で収穫が遅れることも考えられ、ひょっとしたら“10年以上”の歳月が必要になるかもしれない。

まさにワインが主要産業の塩尻市

さて、植樹式には小口利幸 塩尻市長も参加した。市長によると、塩尻市には10のワイナリーが存在し、さらに3つのワイナリーが準備中だという。まさにワイン産業でなりたっている自治体といえる。今回、メルシャンが新ヴィンヤードを検討していた際、ほかの自治体の地区が候補になっていたそうだが、その計画は頓挫したそうだ。それを知った塩尻市が同社を誘致し、今回の開園に結実した。

塩尻市にはワイン産業の発展による雇用創出・税収増加以外にもメリットが生じる。それはキリングループのCSVにある。同社は「健康」「地域社会」「環境」をCSVのテーマにしており、傘下のメルシャンでもそうした課題に取り組んでいる。ユニークだなと感じたのは、そのうちの環境。椀子の農園では、動植物や土といった生態系について、調査したそうだ。結果、レッドリストに掲載されるような貴重な植物や昆虫が確認できたという。

「片丘の新ヴィンヤードでも、貴重な生態系が育つように営農したい。そして“里山”の魅力が後世に伝われば」(松尾氏)とする。

さて、“なぜワインが親しみやすくなったのか”ということにハナシを戻そう。コンビニなどの販売チャネルが増えたこと、購入しやすい安価な製品が多くなったこと以外に、細かいことだが2点あると思う。

そのひとつが“スクリューキャップ”の普及。購入したワインがコルク栓で、しかもコルクスクリューが手元になかった際は失望感に包まれる。まあ、これはスクリューを購入すれば済むハナシ。こわいのは開栓中にコルクが割け、にっちもさっちもいかなくなった場合だ。そうした際の道具もあるそうだが、もちろん家にはなく徒労感と絶望感に包まれる。しかしスクリューキャップなら、開栓に失敗することはまずない。前出の松尾氏によると「スクリューキャップは製造精度が向上し密閉性が高まった。場合によってはコルクよりもよい」なのだそうだ。

1985年の桔梗ヶ原メルロー(手前)。奥は現在のものでラベルの色使いがポップ

もうひとつがラベル。以前に飲んだワインを選ぼうとしても、“欧文”ばかりのラベルが並んでいると、本当にその製品なのか自信がなくなる。ところが最近は、デフォルメされたイラストを使うなど、個性的でポップなラベルが増えた。こうしたラベルならビジュアル的に認識しやすく、次も同じボトルを選びやすい。

「開栓作業がつたないだけ」「記憶力が悪いだけ」という指摘を受けそうだが、少なくとも筆者にとっては、この2点もワインへの親しみが深まった理由となっている。

人口減少を見据えた長期的な戦略を

最後に、日本でワインが好調とはいえ、手放しでよろこべない問題について。それは、人口減少と高齢化だ。この問題は、ワインに限らず酒類産業全体、いや日本の産業全体に暗い影を落とす。50年後には人口9,000万人を割り、高齢者が約4割を占めるといわれている。国税庁によると、飲酒習慣のある者は、男女ともに30歳代から大幅に増加し、70歳以上では減少する傾向があるという。つまり、単純な人口減による酒類需要低下に加え、高齢化による需要減も重なってくる。

こうした国内需要の見通しからも、メルシャン・代野社長は“海外輸出”と口にしたのかもしれない。ただ、海外に潤沢に商品を提供するには、まだまだ生産能力が追いついていない。加えて、“農園開拓”→“ブドウの収穫”→“醸造”には長い歳月がかかる。50年後といえば、まだまだ先のように思えるが、“時間との闘い”はすでに始まっており、今から海外輸出の準備を進めなくてはならないといえよう。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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カレー沢薫の時流漂流 第32回

鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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