IBM Watsonが描く「コグニティブ」な職場が見えてきた

IBM Watsonが描く「コグニティブ」な職場が見えてきた

2017.05.20

IBMは同社のコグニティブコンピューティングプラットフォーム「IBM Watson」の利用事例や活用法などを紹介する「IBM Watson Summit 2017」を4月末に開催した。基調講演などから見えてきた、Watsonがもたらすコグニティブコンピューティングのあるビジネス環境を改めて捉え直してみよう。

コグニティブが変える仕事の質とありかた

コグニティブコンピューティングとは、IBMがAIを使って仕事をする際のスタイルとして提唱している用語だ。単純に単語を直訳すれば「認知コンピューティング」とでも訳せるだろうか。単純なAIと何が違うのかというと、IBMによれば「ある事柄についてコンピュータが自ら考え、学習し、自ら答えを導き出すシステム」だという。

IBMはコグニティブを中心に「データ」と「クラウド」をつなぐ流れを描いている

ますますわかりにくくなっている感じだが、要素技術としては「自然言語認識」「傾向分析」「学習能力・意思決定」という3つの大きな柱を持っている。つまり、人間とは自然な会話で条件の入力が行え、データやユーザーの好みなどを学習しながら、与えられたデータをもとに「これが正解ではないか」とコンピュータが判断した回答を提示してみせる、というものだ。

概念だけ聞くと、昔のSFアニメなどが描いていたコンピュータそのものだという感じがする。パソコンが普及する前の「コンピュータ」のSF的なイメージは、人間が疑問を投げかけたり、データを入力して質問すると、正解とその確率を提示してくれるものだった。

実際にパソコンが普及してみると、それらがあまりに遠い夢物語だったと気づかされることになったのだが、パソコンの本格的な普及からおよそ四半世紀以上も経って、ようやく現実世界がSFに追いつき始めたともいえるだろう。

では、実際にコグニティブコンピューティングを導入した仕事とはどのような変革をもたらすのか。Watsonを導入したという企業は多いのだが、ライバルに真似されては困るということなのか、実際の事例はなかなか見ることができない。正直な話、Watson関連の取材をしていても、「Watsonがあるとどうなるの?」と聞かれても、即座に相手を納得させる具体的な答えは難しかった。

そんな筆者にとって、IBM Watson Summit 2017の基調講演で目を引いたのは、三井住友銀行のコールセンターで実際に導入されているシステムの紹介だ。同行ではコールセンターのオペレーターにWatsonベースのシステムを採用。顧客からの電話を音声解析して質問内容を把握し、顧客が求めている解決方法に最も近いと思われるデータをWatsonが表示してくれるのだ。この紹介の中で、珍しく画面付きでシステムが紹介された。

従来のコールセンターであれば、オペレーターの前に紙の資料が大量に並んでおり、その中から該当する資料を探し出さねばならなかったため、回答までにはかなりの時間がかかった。また、回答前の時間やクオリティは、スタッフにより大きなばらつきが出ることになる。

従来のコールセンターのイメージ。紙の資料が山と積まれており、それを開いて探しながらのオペレーションとなる。平均して回答までに数分はかかっていた

ところがWatsonにサポート事例を学習させておけば、音声認識で顧客とサポート要員の会話を認識し、その結果必要だと推測される資料を瞬時に提示してくれる。最初のうちは間違った資料を提示することもあるだろうが、画面上で次々と候補を確認していく手間は手で資料を探し出すよりは短時間で済むし、学習が進めばこういったエラーもどんどん少なくなり、さらに効率が上がるわけだ。実際、同行では問い合わせ1件あたりのサポートコストが60円削減されたほか、新人スタッフの離職率も48%減少に成功している。

電話の内容が即座に認識され、テキスト化される。テキスト化されることで聞き逃しがなくなり、あとで参照する際のデータとしても使いやすい
会話内容から即座にWatsonが大量のデータから該当しそうな項目を選択して提示する。間違っていたとしても候補を複数用意しておけばヒット率は高いし、紙の資料を引くよりはるかに早い
終了後にフィードバックを返すことでさらに精度が高まっていくのは学習能力を持つ人工知能ならではだ

「人工知能が人間の仕事を奪う」という論評も多いが、コグニティブコンピューティングの世界では、人工知能が人間の仕事をサポートすることで、業務効率の工場や業務時間の短縮、顧客満足度の向上に繋げることができる。また、コールセンターは人の入れ替わりが多い職場だが、その一因として新人が環境に対応できず早期退職するという事情がある。三井住友銀行の場合、Watsonを用いることで、早期離職率も低減に成功しているという。

三井住友銀行のコールセンターでは、問い合わせ1件あたりの60円のコスト削減に成功し、サポート離職率は48%も低減したという

そして事例を見てわかるように、ユーザーはキーボードやマウスにすらほとんど触らないでWatsonの機能を活用できている。ユーザーがシステムに慣れる必要もなく、人工知能という疲れ知らずの相棒と共にテキパキと処理をこなしているというのは、実に未来的な光景だ。

80以上の職種向けのWatsonを用意

Watsonが業務効率の向上に役立つのはわかったが、すぐに業務に導入できるという会社はほとんどないだろう。人工知能は機械学習であれディープラーニングであれ、大量のデータを処理させて学習する段階を経なければ、その真価を発揮できないからだ。

それだけのデータを入力・処理させるのにも時間はかかるし、そもそもデータ自体を用意できないというケースも多いはずだ。

そこでIBMでは、あらかじめ業種ごとに分けて必要なデータを学習させておいたWatsonを準備することにした。業種別のスターターキットとも言えるこれらは、すでに十数の業種向けのものが発売済みだが、今回の発表でこの種類が約80にまで一気に増えることになる。

最終的には200以上の職種を準備するのが目標ということだが、このために相当なデータを準備して学習を続けさせているという事実からも、IBMの本気を感じさせる。将来AIを活用したい企業にとって、ゼロから構築するのではなく、ある程度の学習を済ませたセットから利用できるというのは、非常に大きなアドバンテージになるはずだ。

また、Watson専用のサーバーを購入するのではなく、IBMクラウド上でWatsonを利用するための「IBM Watson Developer Cloud」も用意された。これはIBM Bluemix上でWatsonの諸機能を利用するためのAPIで、Webアプリケーション上でデータ解析や自然言語対話などのWatsonの機能を利用できるようになる。

さらに、約100万円からWatson開発が可能になる「Watsonスターターキット」の提供も開始された。フルセットのWatsonを導入するコストを賄えない企業にとって、スケーラビリティの上からもクラウド上でWatsonが利用できるのは大きなメリットになるだろう。

さまざまな事例の紹介が行われたIBM Watson Summit 2017だが、筆者としては初めて具体的な形でWatsonの実力を知り、またIBMがWatsonにかける本気度を感じ取れる機会となった。

人をAIがサポートしてより高い効果を生むコグニティブコンピューティングの理念は、すでに高いレベルで実現可能な現実のものとなっている。今までは大企業向けのシステムという感想だったが、たとえばスタートアップなどで法務などに人員やコストを割くことが難しいような規模の企業にこそ、判例や法解釈のチェック用にWatsonを導入する価値があるだろう。

数年後にはWatson採用の有無や期間の長さによって企業の生産性や成長性に大きな差が出てきても不思議ではない、そう思わせるものがあった。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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2019.03.18

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第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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