携帯大手の好調を支えるコスト削減、その効果とデメリット

携帯大手の好調を支えるコスト削減、その効果とデメリット

2017.02.22

好調な業績を継続している携帯大手3社だが、その内容を見るとコスト削減や設備投資の減少などによって、高い利益が生み出されていることが分かる。だが今後は新しい通信方式の導入などによって再び投資が増えると考えられ、現在の状況が必ずしも継続するわけではないようだ。

NTTドコモは年間で1,100億円のコスト削減を予想

ここ最近、携帯大手3社の好業績が続いている。1月から2月に発表された第3四半期決算でも、ソフトバンクグループが米国の携帯電話事業で円高の影響を受け減収となったが、業績自体は好調であり、利益は3社ともに大きく伸ばしている。そして3社とも好調という現在の状況は、低迷していたNTTドコモが業績を回復させた2015年以降続いているものであり、現在携帯大手3社は全て“勝ち組”という、やや不思議な状況にもなっている。

だが現在の市場環境を見ると、大手3社にはむしろ逆風が吹いている状況だ。総務省が昨年4月に適用した「スマートフォンの端末購入補助の適正化に関するガイドライン」によって、スマートフォンの実質0円販売ができなくなり、新規顧客の獲得が難しくなってしまった。またその影響を受け、端末価格の高騰を嫌う人達がより安価な料金を求めてMVNOなどのサービスに流出する傾向が急速に強まっており、大手キャリアにとっては既存顧客の流出とARPU(月間電気通信事業収入)の減少が急速に進みつつある。

それゆえ今後、3社の売上は徐々に減少していくものと考えられるのだが、少なくとも現在のところ、大手3社はいずれも業績を伸ばしており、特に利益の伸びが著しいことは確かだ。そこにはサービス開始して間もない光ブロードバンドサービスや、各種コンテンツサービスなどの伸びが影響している部分もあるが、もう1つ大きな影響を与えているのが、コスト削減である。

中でも最近、コスト削減で急速に業績を向上させているのがNTTドコモだ。同社の第3四半期決算を見ると、年間目標1,000億円に対し、累計で820億円のコスト削減を実現したことを明らかにしている。その実績を受けて年間目標をさらに100億円増額し、1,100億円のコスト削減を実現するとしている。

NTTドコモは第3四半期の累計で820億円のコスト削減を実現。年間のコスト削減額を1100億円に増額した

では、年間1,100億円という数字が業績にどの程度に影響を与えると考えられるだろうか。NTTドコモが打ち出した2016年度通期の業績予想を見ると利益予想は9,100億円となっているが、2015年度の利益が7,830億円であることから、年間で1,270億円の利益を伸ばそうとしていることが分かる。それゆえNTTドコモは、この利益の9割弱をコスト削減によって伸ばそうとしているといえ、いかにコスト削減が業績に貢献しているかが理解できるだろう。

インフラ投資や端末割引の減少も利益拡大要因に

だが携帯3社の動向を見ると、こうした直接的なコスト削減だけでなく、それ以外の影響によるコスト削減効果も、好業績に大きく影響していることが見えてくる。

1つはインフラ投資だ。3社はかつて、LTEのエリアカバーを激しく争い、大規模かつ積極的なインフラ投資を続けていた。その影響は、ソフトバンク(現在のソフトバンクグループ)が2012年にイー・アクセスを買収し、LTEに活用できる周波数を獲得するなどの企業買収にまで及んだほどだ。

しかしながらその激しい競争の結果、既に3社は全国の9割以上の地域をLTEでカバー。現在はエリアを広げるための投資から、利用者が多い都市部を中心に、増大するトラフィックに対処するための投資へと変化していることから、投資額もピーク時と比べ大幅に減少している。設備投資が減少すれば利益、さらにはフリーキャッシュフローの増加にもつながるので、インフラ投資が落ち着いたことも好業績には大きく影響しているといえよう。

ソフトバンクグループは国内通信事業のインフラ投資減少によってフリーキャッシュフローが年々増えており、それを元手として利益を海外への投資を進めている

そしてもう1つは総務省の影響である。先に触れた通り、総務省ガイドラインの影響によってスマートフォンの実質0円販売ができなくなり、2月にはそのガイドラインの改定も含めた「モバイルサービスの提供条件・端末に関する指針」が適用されたことで、端末価格は今後一層上昇することが予想される。だが端末価格が上がることは、すなわち従来割引に費やしてきたお金が利益となるため、やはり利益向上要因へとつながってくるのである。

インフラ投資の落ち着きや総務省施策の影響など時勢や外部環境の変化が、大手3社にとってはコスト削減要因へとつながり、それが利益を向上させて業績好調を支える要因にもなっているのだ。

コスト削減依存の好業績は自らの首を絞めることに

だがコスト削減による好業績がいつまでも続くわけではない。確かにここ最近は環境変化がコスト削減要因となっていたが、逆に今後は環境変化によって投資コストを増やさざるを得ない状況を迎えつつあるからだ。

その1つが「5G」、つまり現在主流のLTEやLTE-Advancedといった通信方式の、次の世代となる通信方式の導入だ。5Gに関しては現在、標準化団体の「3GPP」で標準化が進められている最中だが、日本ではNTTドコモが、東京五輪を迎える2020年に5Gの一部要素を導入したサービスを提供する方針を示しているし、ソフトバンクも昨年から「5G Project」と銘打って、5Gでの採用が見込まれる技術を投入して通信環境を向上させる取り組みを進めている。

それゆえ今後、5Gに向けた取り組みは加速度的に進められると考えられ、そうなると減少傾向にあったインフラ投資コストは、再びアップすることになるだろう。5Gが導入されれば再び3社間で激しいインフラ競争が起きることも考えられ、競争が激しいほど投資コストは増大し、業績を落とす要因につながると考えられそうだ。

また総務省の実質0円禁止策によって実現した利益向上も、総務省が長期利用者などに還元することを求めていることから、あくまで一時的なものに過ぎないといえるだろう。実際KDDIは、昨年長期利用者向けのプログラム「au STAR」を開始して顧客還元の取り組みを強化しているが、2016年度の還元額は50億円程度だったものの、2017年度は数百億円規模になるとするとしている。各社の顧客還元は来年度から本格化すると見られ、今後還元額が急増することから利益を減らすことは確実な情勢だといえる。

KDDIは昨年より顧客還元プログラム「au STAR」を展開しており、既に600万会員を突破。顧客還元が本格化する来年度は、還元額が数百億円規模になるとしている

そしてもう1つ、積極的なコスト削減はそもそも社員の士気低下につながりかねないほか、3社の周辺でビジネスを展開する企業にとっては取引の減少や売上の低下をもたらし、不満や離反を生む要因となるなど、必ずしもプラスにつながるものではないことも忘れてはならない。コスト削減によって好業績を生むという現在の構図が続けば、コスト削減によって自らの首を絞めることにもなりかねないだけに、3社には純粋に売上・利益を増やすための新たな戦略も求められるところだ。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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カレー沢薫の時流漂流 第32回

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2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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