ホンダが人工知能で研究拠点、時代の変化は“新たな追い風”となるか

ホンダが人工知能で研究拠点、時代の変化は“新たな追い風”となるか

2017.02.28

本田技研工業は人工知能やロボット技術などの研究・開発を行う新たな拠点「R&DセンターX(エックス)」を東京・赤坂に開設する。「クルマの知能化」をキーワードとする自動車業界の動きは活発だが、R&DセンターXはロボットなどの新価値領域に特化した活動を進めるらしい。今回のホンダの動きは何を意味しているのだろうか。

ホンダが昨年、東京・赤坂に開設した「Honda イノベーションラボ Tokyo」に設置するR&DセンターX

研究対象はロボティクス

R&DセンターXはホンダの研究開発子会社である本田技術研究所が2017年4月に設立する新組織。当面の研究領域は、「ロボット技術」や「モビリティシステム」など自律的に動く機械やシステム(ロボティクスと総称)だ。ロボティクスの基盤技術として、「人と協調する人工知能技術」も研究する。ロボットなどを動かす「エネルギーマネジメント」も研究対象だ。

本田技術研究所の松本社長

センターの設立に先立ち、ホンダは報道陣向けに施設のお披露目を実施。このイベントに登場した本田技術研究所社長の松本宜之氏は、センター設立の背景となった時代の変化を「人工知能をはじめとするデジタルテクノロジーという新たな追い風の出現」と表現した。

クルマとITの融合が急速に進み、業種を超えた合従連衡が巻き起こる自動車業界ではあるが、ホンダにとってみれば、こうした時代の変化は新たな価値を創造するチャンスだと捉えることもできるということだろう。

人工知能やビッグデータといったテクノロジーの進化により、従来以上に幅広いフィールドで価値創造の可能性が拡がってきたとするホンダ。環境の変化を受けて、今後は「AI×Data×Hondaの強み」というコンセプトのもと、従来の「モノづくり」に加え、人と協調する新たな価値を持った「モノ・コトづくり」に取り組むという。

新たなフィールドでの価値創造に挑戦するため、ホンダは「既存の二輪、四輪、パワープロダクツ、ジェットとは切り離したR&Dセンター」(松本氏)を立ち上げた。では具体的に、R&DセンターXの研究はどのような製品・サービスに結びつくのだろうか。

R&DセンターXを担当する本田技術研究所執行役員の脇谷勉氏は、下のスライドで同センターの研究内容が関連するビジネス領域を紹介した。これを見ると、ASIMOのようなロボットが更なる機能拡大を果たす方向性も想像できるし、自動車の安全技術やゼロエミッション化につながる技術が生まれてきそうでもある。

カーボンフリー、食糧、家事支援などの言葉が並ぶ

センターお披露目イベントのプレゼンを聞く限りでは、正直に言って具体的な製品・サービスを想像するのは難しかった。どんなプロダクトに結実するかは松本氏も明言を避けていたが、2017年度中には何らかの成果物をリリースする考えを示した。

日本は人材の宝庫?

センターの仕事の進め方として、特徴的なのはオープンイノベーションを重視するとしていることだ。手を組む相手としては企業、大学、機関、個人などを想定している。

スタンフォード大学名誉教授のエドワード・ファイゲンバウム氏

では、先端技術を研究するうえで優秀な人材は集まるのか。人工知能などの技術を研究対象とするのであれば、例えばシリコンバレーにでもセンターを構えたほうがよかったのではないだろうか。この辺りの疑問について、R&DセンターXのアドバイザーを務めるスタンフォード大学名誉教授のエドワード・ファイゲンバウム氏は楽観的な見方を示した。同氏によると、日本の大学で学ぶ将来のエンジニアたちは「未開拓の資源」であり、むしろ人材は集めやすいくらいだという。

イノベーティブな研究・開発を進めるためには組織の在り方も重要だ。松本氏は創業当時のホンダを引き合いに出し、「イノベーションは柔軟で、機敏で、野心的な組織から生まれる」と指摘。センターの組織はできるだけフラットにし、仕事への取り組み方としては商品や技術・機能別のプロジェクト運営とする方針だという。ちなみに、同センターでどのくらいの研究者を雇用するかは明かされなかった。

オープンイノベーションで自前主義から脱却

自動車業界では昨今、新たな価値の創造に向けて、外部に門戸を開くケースが散見される。最近ではトヨタ自動車が、オープンイノベーションプログラム「TOYOTA NEXT」の実施を発表。これまでは陥りがちだった自前主義にとらわれず、外部の知恵やアイデアを活用していく方針を示した。ホンダは今回、オープンイノベーションを身上とする恒久的な拠点を新設したわけだ。

センターのオフィスはオープンな雰囲気。研究者たちがすぐに議論を始められるよう、レイアウトを工夫しているという

クルマの「知能化」と「電動化」がトレンドとなった今、自動車メーカーは従来のように、品質の高いクルマ作りに終始しているわけにはいかなくなったのかもしれない。「TOYOTA NEXT」の開始を発表する際、トヨタの村上秀一常務は同社が「80年にわたって続けてきたビジネスモデルが通用しない時代に入りつつある」と口にしていた。

ホンダは自動運転で「ウェイモ」(かつてのグーグルの自動運転車部門)と組んだり、電動車向けモーターで日立オートモーティブシステムズとの合弁設立に合意したりと、外部との関係構築を急いでいる。背景にはトヨタと共通する危機感があるのかもしれない。かつては“ワイガヤ”と呼ばれたオープンな社風で、数々の製品を生み出してきた同社。研究者たちの交流が活発になり、外部からも様々なアイデアが流れ込んでくれば、新拠点がホンダを活性化する可能性もあるだろう。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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