苦境から脱出なるか? 新生・湖池屋が生き残りをかける秘伝の味とは

苦境から脱出なるか? 新生・湖池屋が生き残りをかける秘伝の味とは

2016.12.08

“コイケヤ”と言えば、ポテトチップスはじめカラムーチョ、ドンタコス、ポリンキーといった人気商品が名を連ねており、誰しも一度は口にしたことがあるはず。しかし、“コイケヤ”ブランドを率いてきたフレンテの昨今は決して順調な道のりではなく、苦戦を強いられてきた状況だ。そんな中、10月1日に同社はグループ組織再編を行い、新生・湖池屋としてスナック菓子市場に新たな勝負を仕掛ける。2017年2月に新ブランド第1弾を発売するが、湖池屋が新たに目指すところは何だろうか?

新商品を手にする湖池屋の佐藤章社長(左)と小池孝会長(右)

新生・湖池屋誕生までの苦境とは

“コイケヤ”ブランドの商品はどれも知名度があるものばかりだが、ライバルであるカルビーが壁として立ちはだかり、国内のスナック菓子市場において、“コイケヤ”ブランドの商品はカルビーに後塵を拝している状態だ。

ポテトチップスは湖池屋で製造して54年になり、今では定番のスナックになったものの、それだけに商品の市場価値が下がっていく、いわゆるコモディティ化が進んでいる。実際、湖池屋の柴田大祐マーケティング部長によると、レギュラーサイズ・レギュラーフレーバー商品はスーパーマーケットにおいて低価格化と販売数の低下が続いているというのが現状だという。

災害の影響も大きな爪あとを残した。湖池屋がポテトチップスの製造を委託している北海道のシレラ富良野工場が8月、台風10月の暴風雨により浸水したため操業を停止。12月1日には再開したものの、清掃や床の張り替え、機械の入れ替えなど大掛かりな復旧作業が必要だった。

(左)被災当時。(右)復旧後

強力な競合、低価格競争を強いられる現状に加え、生産ラインの一部停止に見舞われる。そんな苦境の中、10月1日のグループ組織再編でフレンテは旧・湖池屋をはじめとする傘下の3社と統合した上で、社名を湖池屋に変更。また、湖池屋の「湖」をデザインした新CIロゴも採用した。

漢字と六角形で構成され、渋いイメージの新しいCIロゴマーク

新生・湖池屋の巻き返し策

新生・湖池屋ブランドのトップを切って発売されるのが、日本産ジャガイモを100%使用し、のりや和牛、だし、松茸といった和の食材を活かした「KOIKEYA PRIDE POTATO」だ。ラインナップは「秘伝濃厚のり塩」「松茸香る極みだし塩」「魅惑の炙り和牛」の3種類。素材はもちろん、皮の向き方や厚み、揚げ方などの点に気を使うこだわりが見えるものとなった。これまでのポップで親しみやすいコイケヤのイメージから一転、高級志向に転じた商品である。

湖池屋から2月に発売されるKOIKEYA PRIDE POTATO。左から松茸香る極みだし塩、秘伝濃厚のり塩、魅惑の炙り和牛

商品コンセプトの背景にあるのが、年代ごとのポテトチップスやスナック菓子の喫食傾向だ。湖池屋によると、ポテトチップスやスナック菓子の喫食率は10代をピークに20代でいったん落ち込み、30~40代で再び上がるものの、また年齢とともに落ち込んでいくという。加えて日本の少子高齢化により、今後、人口において従来のメインターゲットとなる10代の割合が減少し、高齢人口のウエイトが高まっていく。そんな状況において、今後求められるのは上の年齢層をターゲットとした、大人に評価されるポテトチップスやスナック菓子だ。

性別と年代別によるスナック喫食回数のグラフ。黄色がポテトチップス、緑がスナック菓子を表している

また同社では新生・湖池屋のスタートにともない、日本産の材料にこだわって素材の美味さを生かし、なおかつ現代の消費者に求められる価値に合った商品開発を行う「湖池屋品質」を掲げている。さらに大人向けの味として日本の食文化に着目。湖池屋品質とあわせて反映した商品が、KOIKEYA PRIDE POTATOというわけだ。

いかに新生・湖池屋は脱コモディティ化を目指していくか

KOIKEYA PRIDE POTATOでは大人向け・高級路線を打ち出しているが、湖池屋では他にも今後の需要予想として出した「健康」「女性」「食シーン」「容器」というキーワードに基づいた商品開発を行っていくという。

例えば2月には健康志向の商品として「乳酸菌ポリンキー」を発売する。この商品は、コイケヤ商品としておなじみのポリンキー1粒につき、3億個の乳酸菌をプラスしている。そのため、1袋でヨーグルト200g相当の乳酸菌が摂取できるのだ。

2月に発売予定の乳酸菌ポリンキー

また3月下旬には、ドンタコスを一口サイズにしてチーズをかけた「ドンタコス ひとくちDELI」が発売予定だ。こちらは、仕事をしていて小腹がすいた時や、ホームパーティーのおつまみ用途などを想定、幅広い食シーンに対応する。

3月下旬発売予定のドンタコス ひとくちDELI

湖池屋の佐藤章社長は「付加価値経営が新生・湖池屋の基本方針」と話す。コモディティ化で低下した市場価値から脱却するには、商品に新たな付加価値をつけていく必要があると見ているのだ。

既存のスナック業界は子供・若者向けかつ低付加価値というポジションであり、これまでの湖池屋もその位置で競争を行っていた。しかし、新生・湖池屋はその対極的な位置、つまり大人向けで高付加価値な商品を提供するというポジションを陣取って勝負をかけていく。その点について佐藤社長は「スナック菓子業界にはすごく大きいライバルも競合もあるが、そっちを見ない」と話し、「希望を込めて」と前置きしつつも2020年度には売上500億円という高収益体質にしたいという。

なお、湖池屋の基盤ブランドであるカラムーチョ、スコーン、ドンタコス、ポリンキーの今後について同氏はリニューアルも必要と言い、あわせて乳酸菌ポリンキーやドンタコス ひとくちDELIのように健康や食などの面から付加価値をつけていく考えだ。

こだわり志向や健康志向の商品で高価値・高価格化を狙うこと自体は目新しいことではない。すでに、飲料やスイーツなどにおいて数々のものが、プレミアム商品や機能性食品などとして販売され、消費者の選択肢として定着している。しかし、低価格競争が続く既存のスナック菓子の分野においてはまだまだ伸び代がある領域だ。

価値に対して価格が下がる一方で需要が増えないという悪循環の状況にあるスナック菓子市場。フレーバー違いだけで差別化を図ろうとするのは限界を迎えつつある。現状において必要なのは、例えば新たな食べ方や食の楽しみ方を提示できる商品、または食べると美味しさ以外に何かお得感が感じられる商品など、商品価値の抜本的な見直しだ。

新生・湖池屋のラインナップ、第1弾のKOIKEYA PRIDE POTATOは、ビールなどに見られるプレミアム路線、第2弾の乳酸菌ポリンキーは乳酸菌飲料やチョコを思わせる健康路線と、従来の高付加価値商品のラインをなぞって手堅く勝負している印象がある。ただ、スナック菓子はジャンクなイメージが強く、商品価値を高めるのが難しい商品。それだけに、高価値化を狙う湖池屋は今後、開発力が問われていくことになるだろう。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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2019.03.18

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第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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