米国で“絶好調”のスバル - その地位を確立できた理由

米国で“絶好調”のスバル - その地位を確立できた理由

2016.11.21

5年前には年間65万台規模の自動車メーカーであった富士重工業(スバル)が、100万台規模へ手が届きそうな急成長ぶりである。2015年度の売上高は、4期前の実績と比べれば2倍以上となる3兆2,000億円を突破。その成長を担うのは、5年間で2倍に販売台数を伸ばした米国市場である。なぜスバルは米国で人気を拡大できたのだろうか。

2016年度の中間決算説明会(11月2日)に登壇したスバルの吉永泰之社長。米国での販売台数は、59カ月連続で前年同月比増加を達成したと同国での好調ぶりを報告した。今年度の米国における販売台数は、前年度比で約8万台の増加となる66万1,700台を予想する

人気の背景となる米国ならではの事情

米国の国土は、日本の約25倍も広い。

そして、中西部にはロッキー山脈が縦断し、コロラド州にあるその最高点、エルバート山は標高4,000mを超える。そのコロラド州では、パイクス・ピーク・ヒルクライムといって、標高2,800mのスタート地点から富士山より高い頂上まで、一気に1,400m以上の高低差を駈け登る自動車のタイムトライアルが、1916年から独立記念日の7月に毎年開かれている。

人口はというと、米国は3億人強で、日本は1億3,000万人を割っている。これらの結果、人口密度は平均で、米国が1平方キロメートルあたり0.3人、日本は同3人となり、米国に比べ1平方キロメートルあたり10倍の人が日本では密集して住んでいる計算になる。

スバルの話をするために、なぜこのような地理や人口の話をするのかというと、これが北米でのスバル販売好調の理由の一つと考えられるからだ。

広大な米国、自動車が走行するシーンも様々

米国本土では、それほど広い土地に、人はまばらに住んでいる。もちろん、都市部は人口が密集するが、米国の100万人都市というと9つしかなく、日本の11都市と比べて少ない。ニューヨークが800万人で東京の区部とほぼ同じだが、ロサンゼルスは380万人ほどで、あとの都市は多くが百数十万程度の規模でしかない。

最大のニューヨークも、マンハッタンを抜けて30分も移動すれば、郊外の高級住宅地となり、ゴルフ場の敷地の奥に高級住宅が並ぶといった閑静さが得られる。

一方の日本では、東京を抜けても東は97万人の千葉市、北へ行けば128万人のさいたま市、西へ向かえば370万人の横浜市というように、どちらへ行っても市街地の途切れることのない状態が続く。

それだけ広大な米国内での移動は、飛行機が主体だ。そして、空港までは自動車で行き、そこから飛行機で移動し、到着した町でレンタカーを借りて目的地へ向かう。その繰り返しである。遠出の足が飛行機主体とはいえ、その先は自動車しかほぼ移動手段はなく、公共交通機関といってもバスくらいだ。鉄道や地下鉄が整備されている町は、ほとんどない。

したがって、ある程度飛行機で移動したあとは自動車が頼りだ。しかも、広大な土地に、まばらにしか人が居ないほどの人口密度であるから、道路は縦横に整備されていても、道路脇は土漠や荒野が広がる。それは決して大げさな話ではない。

路面状況の変化が多い米国で受けるのはどんなクルマか

米国では舗装された道を走ったあと、未舗装路に足を踏み入れることが日常的にあり得るのである。もちろん、本格的4輪駆動車でないと走れないような悪路ではないにしても、舗装路と未舗装路の行き来は珍しいことではない。

また、年中快適な気温と好天に恵まれるロサンゼルスに住んでいても、自動車で2時間ほど走ればスキーのできるリゾート地へ行ける。

前置きがずいぶん長くなったが、以上の様なわけで、自動車での移動中に、未舗装路や雪道へ走り込む機会は、米国では身近に存在する。したがって、米国で販売される自動車のタイヤは、オールシーズンタイヤといって、少々の降雪であればそのまま走行できなくはない種類が装着されている。

それほど路面状況に変化が多い米国だからこそ、4輪駆動の自動車がもたらす安心感は高く評価される。そこに、スバルの4輪駆動車がまさに適合した。

4輪駆動化への取り組みが奏功

スバルは、1958年に軽自動車の「スバル360」で自動車づくりに乗り出し、1966年には小型車の「スバル1000」を生み出す。その後継が1971年の「レオーネ」である。そして翌1972年には、レオーネのバンに4輪駆動車を設定した。40年以上前の話だ。道なき悪路を走破するためのジープのような4輪駆動車ではなく、市街地を普通に走る自動車の4輪駆動化にいち早くスバルは着手していた。

レオーネのエステートバンに4輪駆動車を設定(1972年)

舗装路を走る、いわゆるオンロード4輪駆動は、1980年に登場したドイツの「アウディ・クワトロ」からとの認識が高いが、スバルはそれより先に乗用車での4輪駆動車を生み出している。ただし、その4輪駆動は、2輪駆動と4輪駆動を運転者自らの手で切り替えて使うパートタイム方式であったため、誰でも簡単に使える機構というより、降雪地帯などで重宝する4輪駆動だったといえるだろう。

対してアウディ・クワトロは、常に4輪駆動でありながら、日常の使い勝手にも優れるフルタイム方式を導入し、アウトバーンを高速で安定して走れる4輪駆動車という価値を強く主張した。レオーネも、1986年にフルタイム方式を導入している。

以後、フルタイム4輪駆動は、レオーネの後継となる「レガシィ」、1992年に新登場となった「インプレッサ」などほかの車種へも広く展開された。

米国市場開拓の旗頭「レガシィアウトバック」が登場

1989年に、レオーネの後継としてレガシィが誕生したときから、スバルはステーションワゴンをツーリングワゴンと呼び、そのうえ「リゾートエクスプレス」と価値づけて、スキーやキャンプなどのレジャーに出かける際に、4輪駆動で安心して、また乗用車として快適に移動できる特徴を打ち出した。これが大人気となる。

2世代目のレガシィでは、ツーリングワゴンの車高を少し高め、道路と車体の間にゆとりをもたせた「グランドワゴン」(輸出名では当初よりアウトバック)という車種を1995年に追加している。これが、今日に至るアウトバックである。これはまさに、冒頭で述べた未舗装路を走ることも視野に入れた米国市場を意識した車種追加であった。

1995年に発売したレガシィのグランドワゴン

アウディにも、車高を上げた「オールロードクワトロ」という車種が1999年に、2世代目の「A6」に車種追加される。レガシィのアウトバックを意識したのではないかと思われる。今日では、「A4」にもオールロードクワトロが車種追加されているが、日本国内の価格で比較しても、A4オールロードクワトロの価格は、レガシィアウトバックの2倍近くする。

ドイツでは、速度無制限のアウトバーンを200km/hで走行できる性能を持つことが前提となるが、米国内のフリーウェイの速度は、日本の高速道路とほぼ同じだから、そのような道路環境でアウディほどの性能は必要ない。スバルで十分だ。しかも、乗用車の4輪駆動としての走破性に不足はない。

レガシィアウトバックは、米国人にとってまさしく最適なバリュー・フォー・マネーな、あるいはアフォーダブル(手ごろな価格)な乗用4輪駆動車なのである。しかも、ほかの選択肢は、ボルボの「クロスカントリー」の4輪駆動車くらいだろうか。それも、レガシィアウトバックより高価だ。

人事からも読み取れる米国市場開拓への想い

そのうえで、2003年の4世代目レガシィ以降は、米国市場を視野に車体を大型化し、2009年の5世代目では更なる大型化により米国向けにしていった。そして、2014年の6世代目ではついに国内には大きすぎる車体寸法となるなど、米国重視の開発が顕著なこの十数年である。国内向けとしては、代わりに「レヴォーグ」という新しいステーションワゴンを誕生させるに至っている。

2014年目に登場した6代目レガシィ

また、5世代目レガシィを2009年に開発し終えたゼネラルマネージャーが、異動でスバル・オブ・アメリカの会長兼社長に就任し、自身が米国市場の実情をつぶさにみながら販売促進を行った。こうした人事も、米国でスバルの4輪駆動車を拡販する大きな力になったはずだ。

スバルの米国事業に見る“ものづくり”の本質

だが考えてみれば、これこそ“ものづくり”の本来の姿ではないだろうか。スバルの社員は、よく「うちは小さな会社だから、何でもやらなければならない」と口にするが、開発した新車が、単に作り手の自己満足に終わるのではなく、開発者が顧客と直接顔を合わせながら販売し、使って喜んでいる姿を確かめてはじめて、ものづくりが完結したことになるはずだ。これは自動車に限らず、どのようなものづくりにも当てはまる本質だと思う。

5世代目レガシィを開発したゼネラルマネージャーが米国に着任した2011年以降、スバルの販売台数は米国で着実に伸び続け、2011年度比で2015年度は2倍に膨れ上がっている。これにはレガシィアウトバックだけでなく、一回り小型のインプレッサを基に、アウトバック同様に車高を高めた「SUBARU XV」(北米ではクロストレックの車名で販売)の投入も効いているはずだ。

SUBARU XVの投入も米国での販売台数を押し上げた

日本の自動車メーカーにとって、米国は引き続き魅力あふれる市場であり、開拓の余地はなお残っている。

対して欧州での日本車は、いまなお苦戦が続く。背景にあるのは、ドイツのアウトバーンと、欧州各地の一般道の速度域が時速80キロメートル前後と高いことにある。日本と米国の交通環境に慣れ親しんだ日本の自動車メーカーは、単に速度無制限のアウトバーンに限らず、日常的に走行速度の高い欧州で通用する性能や商品価値にたどり着けないでいる。

その点、米国は着想次第でまだまだ開拓の余地がある市場だ。また、日本人が創意工夫した新たな価値に好奇心をもって接してくれる、開拓者精神に富む米国人は、これまでも、そして今後も有り難いお客様なのである。

メルカリ出し抜くラクマ、売上金の「楽天キャッシュ」チャージ額が5億円を突破

メルカリ出し抜くラクマ、売上金の「楽天キャッシュ」チャージ額が5億円を突破

2019.01.22

ラクマ売上金の「楽天キャッシュ」チャージ額が累計5億円に

同様のサービスを構想しているメルカリを先行する形に

楽天は1月21日、フリマアプリ「ラクマ」において、取引で発生した売上金のうちオンライン電子マネー「楽天キャッシュ」へチャージした累計額が2018年12月末に5億円を突破したと発表した。

ラクマでの売上金を楽天キャッシュへチャージする機能は、2018年7月より提供開始されている。チャージした電子マネーは、楽天会員向けのグループ各種サービスで利用できるほか、ローソンやファミリーマートなど「楽天ペイ」対応店舗での決済でも利用可能だ。

2017年8月1日から開始されたローソンでの支払いに続いて、2018年12月4日からはファミリーマートでも楽天ペイが使用できるようになった

同じくフリマアプリを展開するメルカリは、100%子会社「メルペイ」で同様のサービスを構想している段階であり、この分野においてはラクマが1歩先行する形になった。

現状、メルカリで得た売上金をメルカリ以外で使う場合は、一度口座に振り込む必要がある。また、売上金には180日という「振込申請期間」が設定されており、その期間中に「口座に振り込む」か、メルカリ内で使える「ポイントを購入」するか、選ばなければならない。ただし振込の場合、1万円未満だと210円の手数料が発生する(2018年1月21日時点)。ラクマの売上金チャージ機能と比較すると、どうしても見劣りしてしまうだろう。

ちなみに筆者もメルカリユーザー。現状、売上金が合計1万円に満たないため、振込手数料を発生させずに現金に換えるためには、あと1540円分の売り上げが必要になる (画像はメルカリアプリより)

しかし、少し古いデータではあるが、2018年5月31日のニールセン デジタルの発表によると、スマートフォンからの利用率の高いオークション/フリマサービスは、1位がYahoo! オークションで25%、2位がメルカリで23%、3位がラクマで11%であることがわかっており、同じフリマサービスであっても、ラクマの利用率はメルカリの半分であるのが現状だ。

メルカリのダウンロード数は2018年11月14日時点で7500万、ラクマが同年10月時点で1500万と、両サービスの普及率にも差があることからも、日本におけるフリマ市場のバランスがすぐにひっくり返ることはないだろう。

だが、ラクマが売上金をさまざまなサービスに使えるという実用性で、メルカリとの新たな差別化ポイントを生み出したことは、新規ユーザーの獲得に少なからず貢献しそうだ。

ラクマ売上金のチャージ額が5億円突破したことは、ユーザーの「アプリ内の売上金を別の場所で使いたい」というニーズの強さの証明ともいえよう。こうしたユーザー視点に立った機能の追加による消費体験の向上が、フリマ市場にどのような影響をもたらすのか、キャッシュレス決済市場への参入が期待される、メルカリの動向と合わせて注目したい。

1000字の描き直しを越えて ―ナール制作の舞台裏

最初の書体感覚をもち続けることのむずかしさ

写研で書体デザインの責任者を務めていた橋本和夫さんに衝撃を与えた書体、ナール。作者の中村征宏氏が第1回石井賞創作タイプフェイスコンテスト応募時に書いた設計意図は、次の通りだ。

〈縦組みの場合にも、横組みにも字間のバランスがムリなく一つの流れを持つことを念頭におき、ボディータイプとして、従来使用されなかった丸ゴシック系のタイプフェイスを試みた。字面をいっぱいに使い、文字のエレメントを強調し、細い線で構成することによりシンプルさを求めた。字面を大きく使うことが字間の問題に関連し、字間のバランス調整のための切り貼り、字詰めの工程を少しでも短縮することができるのではないかと思う。その結果、組み上がりにおいて、集合の調和が生まれるのではないかと思う。広告制作物などにおいて、コピーやサブ・タイトルなどに適するのではないかと考える。〉(*1)

中村征宏氏の著書『文字をつくる』(美術出版社、1977年)

1970年(昭和45)5月18日にコンテスト授賞式が開催されたのち、写研からの文字盤発売に向けて、同年8月ごろから本格的な書体制作が始まった。必要な文字数は漢字が約5400字、ひらがなとカタカナで約150字、アルファベット約100字、その他(約物、記号など)約200字で、合計約5800字だ。写研の監修を受けながら、原字はすべて中村氏が描いた。監修を担当したのは橋本さんである。

約5800字の原字を描くのは、想像以上に大変な作業だ。橋本さんは語る。

「コンテストに応募するときに描いていただくのは、漢字50字とひらがなカタカナ、そして記号の一部だけです。それを1枚のパネルに構成するので、文字構成としては、まとめやすい。ところが、文字盤化する際には約5800字を1文字1文字描くことになり、完成するまでの年月は2年はかかります。外部デザイナーの方と書体をつくるようになって、われわれが一番苦労したのは、“今月と来月では、仕上がってくる書体の雰囲気が変わってしまうことがある”ということでした」

「文字を増やす際に字種リストを渡すのですが、『何の文字をつくるか』を見るためのリストのはずが、長い間ながめているうちに、つくっている文字がリストの文字に似てきて、当初のデザインと雰囲気が異なってきてしまった。ナールは既成概念をくつがえす、突き抜けたデザインの丸ゴシック体だったはずなのに、描き進むうちに最初のデザイン思想から離れ、持ち味が失われるということが起きたのです」

原字を描き進めるうち、コンテストのオリジナルデザインから、いつのまにか特徴が変わってしまっていたのだ。そのままでは、まるで違う書体になってしまう。結局、途中で1000字分を描き直すことになった。

中村氏もこのことを振り返り、著書に〈人の感覚は徐々に変化するものには気づきにくいものですから、いつも最初の見本と照らし合わせながら書き進めることが大切です。このようなことは、太さだけのことではなく字形とか感覚面でも同じようなことがいえます。感覚もときがたつことによってどんどん変化するものですが、とくに最初の感覚は大切にしていきたいものです〉と書いている。(*2)

悩ましい文字

「もうひとつ、ナールを監修したなかで、ひどく悩んだことがありました。ナールは、字面いっぱいに真四角に描かれた書体です。たとえばひらがなの『り』は通常は縦長、『へ』は横長の形をしていますが、これらの文字すら、できる限り正方形に近づけて描かれている。ぼくが悩んだのは、『々』という漢字でした」

ナールでは、縦長の「り」、横長の「へ」も正方形にかなり近い

「時々」「常々」「佐々木」など、同じ漢字を繰り返すことを表すときに用いられる「々」の字だ。

「常識的にいえば、この字は他の漢字よりも小さく描きます。では、通常は縦長、横長など固有の形をもつひらがなですら正方形に近づけているナールでは、どういう大きさにすればよいのか? 最初は『々』も他の漢字と同じ大きさで、真四角にするのがよいと思ったのですが、いざつくってみると、やはり少しは他の漢字より小さくしなければ『々』に見えないとわかりました」

「他の書体をつくるときにも『々』をどういう大きさにするか、いつも考えるのですが、ナールのときにはとりわけ悩んだものでした」

また、こうした試行錯誤を経て、「文字を図形化する際も、かなと漢字の使い方に意味のあることをあらためて認識しました」という。

新聞雑誌、広告から、道路標識まで

途中で1000字の描き直しなどがあったものの、コンテストから2年後の1972年(昭和47)、ナールは写研写植機用の文字盤として発売された。書体名は、「中村」の “ナ” と、丸みを表す言葉である「ラウンド」の頭文字 “R” をとって「ナール」とつけられた。(*3)さらに、ナールと組み合わせて使うことを想定した中太の「ナールD」の文字盤も1973年(昭和48)に発売された。

ナールD(上)とナール(下)

中村氏はコンテスト応募当時、ナールを本文書体と考えていたが、いざ発売されてみると、広告や雑誌、新聞などの見出しなどに使うディスプレイ書体として大人気となった。ポスターや広告のキャッチフレーズ、テレビの字幕、道路標識などに幅広く使われ、一世を風靡した。

「タイポスによってデザイナーのつくる書体が注目され、少女たちが丸文字を書くようになっていく流れのなかで登場したナールは、『時代に乗った』ともいえますが、むしろ『時代をつくった』書体といえるでしょう。写植の文字はナールの登場によって、それまで職人が手描きしていたレタリング文字の分野に浸透していった。“新書体ブーム”の幕開けでした。そうして写植の機械は、単に文字を印字するだけでなく、多彩なディスプレイ書体によって雑誌や広告にファッション性を生み出す手段のひとつとして、とらえられるようになっていったのです」

(つづく)

(注)
*1:中村征宏『文字をつくる』(美術出版社、1977年)P.80
*2:同書 P.21
*3:『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』(写研、1975年)P.127

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。

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