北米で大人気のスバル、その地位はエコカー時代到来後も安泰か

北米で大人気のスバル、その地位はエコカー時代到来後も安泰か

2016.11.30

北米市場で急成長を遂げ、業績を大きく伸ばした富士重工業(スバル)だが、燃費規制の強化や、2018年からカリフォルニア州で強化されるZEV(ゼロ・エミッション・ヴィークル)規制への対応は耳に届いてこない。ZEV規制は、2018年モデルから、新車販売の4.5%の比率で排ガスを一切出さない電動車両とすることを求める。これまではハイブリッド車もZEVに加えることが許されてきたが、2018年からはそれもなくなる。スバルは、どう取り組もうとしているのだろうか。

先日のロサンゼルスモーターショーで世界初公開したSUBARU VIZIV-7 SUV CONCEPT。大きな車体のクルマも北米におけるスバルの人気を支えているが、エコカー全盛時代が到来しても、その人気は維持できるのだろうか

日本と欧米で異なる燃費規制についての考え方

スバルの将来に対する考察の前に、前提となる燃費規制のおさらいをしておく。

これまで日本国内では、省エネルギーへ向けた自動車の燃費基準について、車両重量による区分に応じて目指すべき燃費性能を実現していればよかった。簡単に言えば、小さくて軽い自動車の燃費は厳しく、大きくて重い自動車の燃費は甘い設定だ。

これに対し、欧米での燃費規制(またはCO2の排出量規制)においては、自動車メーカーごとの平均燃費に対する数値規制が設けられている。つまり、小さくて軽い自動車は目標達成が容易で、大きくて重い自動車は達成するのが厳しいという、燃料消費(またはCO2排出量)に対する均一な規制の考え方に基づく。米国でCAFE規制と呼ばれているものは、企業平均燃費(Corporate Average Fuel Efficiency)のことである。

当然、環境の改善へ向けては、均一的な一斉に規制する考えが的を射ている。日本の規制は、国内に8社も乗用車メーカーがあり、また4社の商用車メーカーを抱える管轄省庁が、各メーカーの存続を優先した考え方に基づいて決める。方向性として環境改善へ向かってはいても、その姿勢に厳しさが欠けていたといえなくはない。

既存エンジンでは対応不可能? 欧州のCO2排出量規制

こうしたなか、欧州では2021年からCO2の排出量を1キロメートル走行あたり95グラムまでとする規制が実行に移される。日本でなじみのある燃費性能の表記に従えば、約25km/Lと換算される。これを、これまで排気量3~4リッターといった大きなV型エンジンを搭載してきた高級乗用車で達成するのはかなり厳しい。たとえば、現行のトヨタ自動車「クラウン」のハイブリッド車は、国内のJC08モード燃費で23.2km/Lであり、まだ足りない。ガソリンエンジン車では、11.4km/Lでしかない。ちなみに、ドイツのメルセデス・ベンツの場合は、S300hというハイブリッド車で20.7km/Lである。

したがって、1キロメートル走行あたりのCO2排出量を95グラムに抑えることは、もはやハイブリッド車はもとよりディーゼルエンジン車でも至難の業で、電気を使ったモーター走行をより増やせるプラグインハイブリッド車(PHV)であることが必須となってくる。さらにその先を見据え、欧州の自動車メーカーはこぞってPHVのみならず電気自動車(EV)の開発に、一気に乗り出しているのである。

これに対し、日本の自動車メーカーのPHV化やEV化への動きは鈍いといわざるを得ない。なぜなら、欧州での日本車販売はいまだ芳しくなく、それほどこの規制が身に沁みてはいないからだろう。

一方、前回の記事で触れているように、米国市場では、スバルを含め日本の各自動車メーカーが好調で、販売実績を伸ばし、それが業績を安定させたり上向かせたりしている。

その米国でも、燃費規制の厳しさが急速に強まっている。

ZEV規制の対象メーカーが拡大

欧州で実施されるCO2排出量の1キロメートルあたり95グラム規制に相当するのが、米国で2025年から実施される1ガロンあたり56.2マイルという燃費規制だ。これを日本の表記に換算すれば23.9km/Lとなる。ほぼ、欧州のCO2排出規制に近い数値と言える。ちなみに、最新のスバル・インプレッサの燃費性能は、1.6Lエンジン車で18.2km/Lである。

新型インプレッサ

さらに、日本車にとって重要な市場であるカリフォルニア州では、ZEV規制が敷かれている。これは、カリフォルニア州の市場で販売される新車のうち、ある割合を排ガスゼロ、すなわちEVや燃料電池車(FCV)などのゼロ・エミッション・ヴィークルとしなければならないという法律だ。

過去、この規制の対象となってきたのは、新車販売台数の多い大手自動車メーカー(GM、フォード、クライスラー、トヨタ、日産自動車、本田技研工業)に限られたが、2018年からは中堅どころのダイムラー、BMW、フォルクスワーゲン、マツダ、スバル、現代自動車、起亜自動車、ボルボ、ランドローバーも対象となる。

さらに2018年からは、これまでZEVの数に含めることのできたハイブリッド車が、対象から外されることになった。すなわち、ガソリンエンジン車やディーゼルエンジン車の燃費も年々よくなり、またハイブリッド車の販売台数も増え、ハイブリッド車を優遇はできないとの判断だ。そして、PHVは残される。

ZEV規制が拡散する可能性も

欧州の自動車メーカーがPHVの開発を急ぐ背景には、地元EUでのCO2排出量規制に加え、カリフォルニア州でのZEV規制強化も絡んでいる。

なおかつ、2018年というと少し先のような気がするが、米国で販売される新車のモデルイヤーは前年の秋から始まる。つまり、来年2017年の秋以降に販売される新車はこの適用となるわけである。

また、カリフォルニア州だけの話だろうと高をくくってもいられない。カリフォルニア州での販売が不振となれば、米国市場での日本車の販売不振と同義語といっていい事態に陥る。また、1990年代のZEV規制法案から、カリフォルニア州の規制に追従する他の州での動きがあり、2013年には、東海岸と西海岸沿いの8州(コネチカット、メリーランド、マサチューセッツ、ニューヨーク、オレゴン、ロードアイランド、バーモント、そしてカリフォルニア)の知事が、ZEV導入のためのアクション計画に調印している。

話は長くなったが、日本では、欧米市場で急速に起こりつつあるエンジン車存続の厳しさがほとんど話題にのぼらないが、海を越えれば、エンジンの存続さえ厳しくなる規制が差し迫っているのである。この傾向は、中国市場にも及ぶとみられている。

スバルの電動化への取り組みは

こうした情勢を踏まえ、スバルの行方を考えてみる。

2016年3月に技術発表された「スバル・グローバル・プラットフォーム」は、2025年までを見据えた次世代プラットフォームであり、将来の電動化にも対応した設計構想で実現しているという。

スバル・グローバル・プラットフォームは将来の電動化にも対応した設計構想だ

しかし、そこまで語られた後、詳細説明においては、事故ゼロを目指した安全と、欧州車水準を求めた操縦安定性の話に終始し、電動化への具体的な道筋は、吉永泰之社長はじめ役員から語られることがなかった。しかしその時点で、上記の欧米の情勢は進展しているのである。

この秋に改めて情報を集めてみると、2021年にはスバル独自のEVが構想されているようだ。だが、その3年前、さらに実際には来年秋にカリフォルニア州で施行されるZEV規制に対する対応はどうなっているのだろうか。このタイミングで現実的な電動車両が登場すると考えるのは難しい。ただ、追加の中堅自動車メーカーには猶予期間が設けられるとの話も出ているが…。

トヨタとのアライアンスでPHVに対応?

スバルは2014年5月の新中期経営ビジョン「際立とう2020」の中で、「アライアンスによる世界最高環境技術を融合したスバルらしいハイブリッド車を開発」すると述べている。だが、先に述べたように、すでにハイブリッド車では燃費性能が足りなくなりつつあり、カリフォルニア州のZEV規制に対しては何の効力も持たない。

アライアンスをいかすというなら、トヨタの技術を応用し、プリウスPHVのようなクルマを作るのだろうか。しかし、そのプリウスPHV自体が、この秋の発売予定を年明け発売に変更するなど出遅れている。

トヨタにはほかに、後輪駆動車用のハイブリッド機構もあるが、スバルらしさをと言うなら、これを水平対向エンジンと組み合わせていくことは可能なのかどうか。4輪駆動とするには、駆動力を前後に配分する機構が必要であり、それをトヨタのハイブリッド機構で実現できるのか。あるいは、前後どちらかの駆動力はモーターのみで行う方式とするのだろうか。何かが決定され、開発が動いているという様子や噂は伝わってこない。

もし、トヨタのハイブリッド機構をいかしたPHVが登場したとき、スバルが根幹とする水平対向エンジンとAWD(4輪駆動)を手放さざるを得なくなるとしたら、低重心と走行安定性の高さというスバルが永年培ってきた独自性が失せ、他社と同等という性質の持たせかたになってしまう。

EVとの相性がよさそうなスバルの特性

では、スバルの独自性をいかせるエコカー戦略とは何かを考えてみると、いっそのこと、一足飛びにEVにしてしまうのが良さそうな気がしてくる。駆動用リチウムイオンバッテリーを床下に搭載し、4輪をモーター駆動にすれば、水平対向エンジンとAWDという、これまでのスバルの図式をそのまま継承する、低重心で走行性能の高いゼロエミッション車が誕生する。しかも、電動であればより緻密に4輪の駆動力制御を行うことができるようになり、低重心で安定したスバルの走りを、これまで以上の水準へ到達させることも可能だろう。

直列6気筒エンジンを最大の特長に、“駆けぬける歓び”を追求してきたドイツのBMWは、はやくもEVとPHVを手掛け、駆けぬける歓びになんら変わりのないことを実証し始めている。エンジンにこだわらなくても、伝統的な乗り味を、電動で作り込むことはできるのである。

EVというと、いまだに走行距離の短さを懸念する声があるが、いちはやく電動化へ着手したBMWは「i3」の発売後、3年弱で航続距離390キロメートルを実現した。これに発電用ガソリンエンジンを追加したレンジエクステンダーであれば、さらに足を延ばせる。

BMWのEV「i3」。航続距離は390キロメートルで、発電用ガソリンエンジンを積めば更に延ばせる

日産リーフの一充電走行距離は、現在最大で280キロメートルだが、日産では同じリーフの車体に、1回の充電で500~600キロメートル走行可能なリチウムイオンバッテリーの開発を進めており、実験車両が走行を重ねている。

あと数年のうちに、EVの走行距離を懸念する話は払拭される見通しだ。このような時代に、いつまでも手をこまぬいているのは得策とはいえない。

エコカー全盛時代は商機でもある

スバル・グローバル・プラットフォームの第1弾として、10月に新型インプレッサが発売され、走行性能が格段に高まったと評判で、日本カー・オブ・ザ・イヤーを狙おうとの勢いである。だが、その燃費性能では、欧米の燃費規制の動向に対して太刀打ちできない水準だ。

スバルは、ブランドメッセージとして「安心と愉しさ」を掲げている。その安心とは、操縦安定性やアイサイトを基軸とした安全性能だけではなく、この先スバルに乗り続けることが安心であるのかが問われている。いま、評判の新型インプレッサを購入し、5年後、そのクルマに乗り続けることに胸を張り、安心していることができるだろうか。スバル社内で考える「安心」と、新車を購入してから数年、あるいは5年、10年と乗り続ける顧客の思う「安心」との感覚のズレがないか、気になるところだ。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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