「マツダ3」登場が追い風に? 注目すべきハッチバックの新たな潮流

森口将之のカーデザイン解体新書 第11回

「マツダ3」登場が追い風に? 注目すべきハッチバックの新たな潮流

2019.01.11

ハッチバックのルーツはフランスとイタリアにあり

若者の心をつかんだホットハッチ、革命児「シビック」も登場

もはや経済的な実用車ではない! 変貌を遂げるハッチバック

多くの人の目がSUVに吸い寄せられている昨今だが、その中でハッチバックに新たな流れが生まれつつある。実用性や経済性ばかりを重視するのではなく、カッコいいデザインや楽しい走りを追求する車種が増えてきているのだ。マツダの新車も控える2019年は、ハッチバックが自動車業界のトレンドになるかもしれない。

マツダは今年、ハッチバック(画像)とセダンのボディタイプを持つ新型車「マツダ3」を発売する

ハッチバックのルーツは?

ハッチバックの歴史を語る上で外せない車種が2つある。1961年に発表されたルノー「4」(キャトル)と、その11年後に登場したルノー「5」(サンク)だ。

ルノー初の前輪駆動車でもあった「4」は、量産車初のハッチバックでもあった。コンセプトは「ブルージーンズのようなクルマ」だったそうで、背が高くて後端まで伸びたルーフは、マルチパーパス(多目的)であることを強調していた。

ルノー「4」は量産車初のハッチバックだ

ところが、同じプラットフォームを使って1972年にルノーが送り出した「5」は対照的だった。当初のボディは3ドアだけであり、前後のバンパーは量産車でいち早く樹脂製とするなど、ファッショナブルな面を強調していたのだ。

ファッショナブルに進化したルノー「5」

もうひとつの無視できない流れはイタリアにあった。1964年、フィアットがグループ内のアウトビアンキというブランドから前輪駆動ハッチバック「プリムラ」を登場させると、5年後にはひとまわり小さな「A112」を送り出したのだ。アウトビアンキは同クラスのフィアットより上級という位置づけで、ルノー「5」のように、付加価値を与えられたクルマだった。

「5」が生まれた1972年前後には、アウトビアンキ「A112」とプラットフォームやエンジンなどを共用したフィアット「127」、プジョー「104」、ホンダ「シビック」などが相次いで発売となり、1974年にはフォルクスワーゲン(VW)が「ゴルフ」を送り出すなど、ハッチバックは次第に勢力を増していく。

ホンダの初代「シビック」

その過程においては、前輪駆動ではないハッチバックも生まれた。代表格といえるのがトヨタ自動車の2代目「スターレット」だ。当時のトヨタは前輪駆動車を市販化していなかったこともあって、FR(フロントエンジン・リアドライブ)のままハッチバックを仕立てていたのだ。

FRのスターレットは、室内の広さなどで前輪駆動のライバルには劣っていたものの、前輪駆動のハッチバックが主流になる中で、コンパクトな後輪駆動の実用車という独自のパーソナリティが逆に注目されて、走り好きの人々に愛されることになった。

忘れがたきホットハッチの名車たち

走り好きの人々に愛された車種といえば、「ホットハッチ」と呼ばれたクルマたちを忘れることはできない。ハッチバックをベースとして高性能エンジンを積み、サスペンションを低く固め、ボディやインテリアを精悍に装ったものだ。

この分野のパイオニアといえるのが、1973年発表のアウトビアンキ「A112アバルト」だろう。アバルトは1960年代、フィアットのリアエンジン小型車「600」をベースとした高性能車を製作してレースで大活躍したが、600の生産中止に伴い、同じエンジンをA112に載せた車種を企画したのだ。現在のアバルト「595/695」のルーツになった1台といえるかもしれない。

アウトビアンキ「A112アバルト」

A112アバルトが登場した翌年には「シビック1200RS」、1976年には「5アルピーヌ」と「ゴルフGTI」が登場する。

シビックRSはシビックのスポーツタイプだが、ホンダは大気汚染やオイルショックなどが問題となっていた当時の国内事情を鑑みて開発を行っていた。エンジンは従来から出力を7psアップさせたに過ぎない。もっと早そうな名前も付けられただろうが、「ロード・セーリング」の略である「RS」を選んだのも、当時の情勢を考慮してのことだろう。

昨年はルノーが「アルピーヌ」ブランドを復活させ、新型車「A110」を発表してファンを喜ばせたが、A110にも脈々と流れるスポーツカーのノウハウを注ぎ込んで生み出したのが、ホットハッチの「5アルピーヌ」だった。1.4Lから93psを発生したエンジンは、のちにターボ化されて110psまで力を増した。現在も作り続けられているゴルフGTIの初代は、1.6Lから110psを発生していた。いずれのクルマも、小さな体に大きな力を秘めていたのだ。

VWの初代「ゴルフGTI」
こちらが現行型「ゴルフGTI」

ハッチバックは1980年代に入っても、若者を中心に根強い人気をキープし続ける。その中で、異彩を放っていたのが3代目シビック、通称“ワンダーシビック”だった。

ワンダーシビックは3ドアと5ドアのハッチバック、4ドアセダンという3つのボディ全てが専用設計で、3ドアはスポーツカーのように低く、5ドアは逆に現在のSUVを思わせる背の高いシルエットで、「シャトル」というサブネームが与えられていた。

“ワンダーシビック”と呼ばれたホンダの3代目「シビック」

しかし、その後はバブル景気の到来で、多くのユーザーが高級志向に走ったこともあって、ハッチバックに目を向ける人は少なくなっていく。この時期は、日産自動車が初代「マーチ」をベースにレトロ風デザインを与えた「Be-1」「パオ」「フィガロ」が目立っていたが、バブル崩壊とともにこの流れは消滅している。

日産が初代「マーチ」をベースに作った「パオ」

その頃からハッチバックの主役となっていったのは、1991年発表の2代目「マーチ」、1999年デビューのトヨタ自動車「ヴィッツ」、2001年誕生のホンダ「フィット」といったクルマたち。つまり、実用的かつ経済的な車種だ。「コンパクトカー」という言葉もこの頃に生まれた。一方、かつて一世を風靡したホットハッチは次々に姿を消していった。

元来、欧州でハッチバックは合理性重視の車種として認識されていたのだが、質実剛健なVWのゴルフがベンチマーク的な存在となったことで、その印象が強まっていく。ルノーの「5」も、1990年に後継車の「ルーテシア」(欧州名はクリオ)が登場したあたりから、実用性を重視する方向性にシフトしていった。

2001年にBMWプロデュースの新世代「ミニ」が誕生した後には、VW「ニュービートル」やフィアット「500」など、かつての大衆車のリバイバルが相次いだ。これらのクルマは、パーソナルカーとしてのハッチバックの役目を受け継ぐ存在のようにも見えたのだが、そもそも元ネタがないと生まれなかったわけだし、世界的なブームになるまでには至っていない。

実用車からの脱却が始まった? ハッチバックの今後は

しかし最近、ハッチバックに新たな流れが生まれつつあると感じている。SUVやミニバンの台頭もあってか、実用性追求の姿勢が薄れつつあるのだ。かつてのルノー「5」やワンダーシビックのように、ファッショナブルでスポーティな方向性を目指す車種が増えてきたような気がする。

その流れを象徴しているのが、これまでもハッチバックに革命を起こしてきたシビックではないかと思っている。

かつては日本製ハッチバックの代表格だったシビックだが、2005年発表の9代目から国内生産はセダンのみとなり、ハッチバックは高性能版の「タイプR」を英国から輸入するようになっていた。しかし、10代目となる現行型では、やはり英国からの輸入車ではあるものの、タイプR以外のハッチバックが復活している。

ホンダの現行型「シビック」

ボディサイズはかつてのシビックと比べるとかなり大柄になったが、長さや幅に対してかなり低いプロポーションや、窓が大きくて開放的なインテリアなどは、1980年代のワンダーシビックを思い出させてくれる。

トヨタが2018年夏、12代目カローラのトップバッターとして発売した「カローラ スポーツ」も、これまでカローラが守り続けてきた5ナンバー枠を脱したボディサイズに加え、個性的なフロントマスクもあいまってダイナミックな雰囲気を発散している。

トヨタの「カローラ スポーツ」

そして、今年の注目はマツダの新型「マツダ3」(日本名はアクセラ)だ。長いボンネット、高めのベルトライン、小さなキャビン、スロープしたリアなどに加え、キャラクターラインをほとんど使わず、線ではなく面で形を表現しているところなど、理屈抜きにカッコいい。

マツダの新型車「マツダ3」

新型マツダ3の原型は、2017年の東京モーターショーに「魁(カイ) コンセプト」という名前で登場していた。その時にマツダは、ワンモーションのシンプルなラインでフォルムを描きつつ、繊細な造形で光の移ろいやリフレクション(反射)の動きをクルマに取り込むことで、これまで以上に力強く、味わい深い生命感を作り込んだとアナウンスしていた。でもそれが、ほぼそのまま市販型になるとは思わなかった。

マツダの「魁(カイ) コンセプト」
新型「マツダ3」はコンセプトカーがそのまま市販車になったような印象だ

もちろん、ゴルフに代表される実用的なハッチバックが消えていくとは思っていない。しかし、SUVやミニバンが実用車の役目を担う今、ハッチバックがパーソナル化するというのは理解できる流れだ。今後はこうした車種がいくつも登場してきそうで、長年ハッチバックに乗り続けてきた筆者は嬉しい気持ちになっている。

関連記事
その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

連載バックナンバーはコチラ

関連記事
鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

カレー沢薫の時流漂流 第32回

鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

関連記事