10年前の失敗を糧に銀行破壊に挑む「ネオバンク」、米で急成長

山下洋一のfilm@11 第3回

10年前の失敗を糧に銀行破壊に挑む「ネオバンク」、米で急成長

2018.12.25

銀行大手を上回るネオバンクの新規顧客獲得ペース

リーマンショック以来、10年ぶりの景気減速の兆し

長く続いた米国の景気拡大局面ついに終了か

巨大なバンキング市場にディスラプションが起こる可能性

Amazonなどプラットフォーマーの市場参入も

米国で「ネオバンク」と呼ばれる新たな銀行の利用者が増加している。例えば、サンフランシスコを拠点とするChimeは毎月15万人以上の利用者を増やしており、新規口座獲得のペースはCitibankやWells Fargoといった銀行大手を大きく上回る。

ネオバンクの明確な定義はまだなく、今伸びているのは預金や融資といった従来銀行が行ってきたサービスを肩代わりする事業者だ。Chimeのほか、Simple、Moven、Empowerなどがネオバンクと呼ばれており、銀行大手にはない新しい金融サービスを提供する。彼らの多くは、銀行業務に必要なライセンス並びに安全の担保を、既存の地方銀行と提携することで確保している。

米景気拡大がついに終わる? ふたたびネオバンクに脚光

ネオバンクが銀行大手の牙城を崩そうとするのは、実はこれが二度目だ。第一波はリーマンショック後の2009年頃に起こったが、景気回復と共に銀行大手が息を吹き返し、バンキング市場に大きく食い込むことはできなかった。それから10年が経過し、長く続いた米国の景気拡大局面の終わりの兆候が見え始め、今ふたたびネオバンクが注目されている。

"景気減速・後退"を要因としている点では前回と同じだが、今回のネオバンクには大きな追い風が吹いている。同じく10年の歴史を積み上げてきたスマートフォンの普及である。Chimeなど基本的な銀行業務を提供しているネオバンクは、オンラインのみでサービスを提供し、ユーザーはスマートフォンを通じて全てのサービスを受け取れる。

10年前はスマートフォンの信頼が低く、残高確認以外をスマートフォンでやることに不安を覚える人が多かった。しかし、この10年でスマートフォンは私達の暮らしに深く浸透し、例えばモバイルで買い物をする人は珍しくなくなった。一方で、10年前は人々の生活を豊かにするものの一つだったショッピングモールがここ数年で急速に縮小している。

同じことがバンキングに起こっても不思議ではない。なぜなら、バンキング市場は"巨大"で、長く"変化に乏しく"、そうした銀行大手に人々が強い"不満"を抱いている。「デジタル・ディスラプション」が起こる条件が揃っているからだ。

ここまで読んで、「ネオバンクって日本でいうネット銀行だよね」と思った人も多いと思う。確かに、今のところネオバンクは日本にもあるネット銀行以上の存在にはなっていない。では、なぜ今回ネオバンクを取り上げたかというと、今注目すべきはリアルな銀行の方。米国では日本に比べ、従来の銀行がディスラプション(破壊)の脅威にさらされている。

「不要な手数料、不透明な手数料と決別できる」とアピールするChime。銀行大手のサービスを利用する米国の平均的な家庭は毎年329ドルの手数料を支払っているという

リアル銀行を襲うディスラプションの波

「手数料が高い」「顧客のためのサービスに欠ける」「モバイル対応が遅い」など、競争が少ない立場にあぐらをかいてサービスの向上・改善に取り組んでこなかった銀行大手に対する人々の不満は根強い。とはいえ、リーマンショック後は、多くの銀行がオンラインサービスを強化し、顧客の体験に基づいたサービスの改善を行った。それでも手数料だけは変わらず、それどころが金額が上がり、対象が増え続けている。何か問題があって小切手の換金をストップさせたら30ドル、残高を超えて小切手やデビットカードを使ってしまったら35ドル (Overdraft fee)というように油断するとどんどん貯金が目減りしていく。残高が足りなくなることなんてめったに起こらないと思うかもしれないが、2017年に米国で343億ドルものOverdraft feeが徴収された。Bankrateの調査によると、ATMの手数料も過去10年間で上がり続けており、最新の調査 (2017年7月~2018年7月)でも記録を更新した。

従来の銀行は各地に支店を置き、スタッフや機材を維持していく必要がある。固定費用が大きな銀行にとって、手数料は預金の少ない顧客からも入ってくる安定収入になっている。10年前にネオバンクが話題になった時は、近くに支店があり、数多くのATMで現金を引き出せる安心感を優先する人が多かった。しかし今は、近くに支店があるより、スマートフォンで完結する便利さを求める人が増えている。従来銀行の手数料に頼らざるを得ない構造が疑問視されるようになって、ネオバンクやチャレンジャーバンクに顧客を奪われる。銀行の固定費用負担の重みが増し、さらに手数料収入に頼るという悪循環だ。

それに対して、支店を持たないネオバンクは、少ない固定費用負担でサービス開発を充実させ、手数料を最小限に抑え、預金利率にも反映させている。そう考えると、このまま増え続ける手数料を払うことに対する疑問は大きくなる一方だ。さらに、キャッシュレス化がこのまま進めば、ATMにアクセスできるような環境もこれまでほど重要ではなくなるだろう。

Wall Street Journalによると、米国では2017年6月までの1年間で閉鎖した銀行支店が1,700店を超えた。1年間の減少数としては過去最高だ。しかし、全ての銀行で減少しているのではなく、地域のコミュニティに根づいた小規模の銀行は逆に支店を増やしている。これは90年代後半から2000年代の書店市場の変化に似ている。90年代後半、大量仕入れによる値引き商法を展開した大手書店チェーンによって街の書店が減少した。そんな大手書店チェーンのビジネスモデルをAmazonが破壊。逆にAmazon時代になると、学校など地域コミュニティとの関係が強い街の書店がリアルの世界では独自の価値を提供できている。

では、今あるネオバンクがこのまま銀行大手に取って代わるかというと、デジタル・ディスラプションの多くがそうであるように、破壊的創造から新たな環境が形成される過程で、初期に活躍したスタートアップの多くは姿を消すだろう。

Amazonはバンキング市場をも支配するのか?

すでにSquareやGoldman Sachsといった異なる分野での成功者がバンキング市場に参入してきている。さらに「プラットフォーマー」の参入も噂される。今日のネオバンクは自身のサービスを説明する上で、Amazonを例に引くことが珍しくない。より良い体験を築き上げ、利用者のロイヤリティを獲得することに注力し、利用者のデータを新たな製品やサービスに活用していこうとしている。しかし、そのモデルとしているAmazonがバンキング市場の攻略に乗り出さない理由はない

実際に今年3月、「AmazonがJPMorgan Chaseと共に、若い世代のニーズを満たし、また銀行口座を持てない人達のソリューションにもなる当座預金口座のようなサービスを開発している」とWall Street Journalが報じた。その後にBainが行った6,000人の米消費者を対象にした調査で、Amazon Primeメンバーの43%が「試してみたい」と回答した。18~34歳の年齢層だと70%近くになる。今のネオバンク市場の盛り上がりには、次世代のデジタルバンキングへの期待と、それを早く実現させたいという力が働いているのだ。

米通貨監査局 (OCC)から国法銀行免許を暫定取得したVaro、金融サービスとは何なのか? 銀行の存在意義は? 利用者にとっての価値は? といった根本を問う議論が規制にも及んでいる

山下洋一のfilm@11」は、シリコンバレーを中心にテクノロジー企業の勃興を追い続けてきた筆者が、独自の視点で米国の”今のリアル”を切り取る連載コラムです。

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その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

カレー沢薫の時流漂流 第32回

鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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