抜本改革で安くなるのか!? 税制改正大綱で考える自動車税制の行方

抜本改革で安くなるのか!? 税制改正大綱で考える自動車税制の行方

2018.12.20

「自動車取得税」は廃止、「自動車税」は減税に

「保有から利用へ」の大変革に合わせた抜本改革へ

走行距離への課税は不公平? 課題も見える将来の税制

自民党と公明党は、2019年度の与党税制改正大綱をまとめた。今回の改正では、2019年10月の消費増税への対策とともに、社会・経済の変化に対応した税制の抜本改革の動向が注目されていた。

自動車関連の税制については、消費増税後に景気が冷え込むことを防ぐため、2019年度単年度で530億円の減税措置がなされた。これは従来、クルマを購入する時に消費税との二重課税となっていた「自動車取得税」を廃止し、保有段階で課税する「自動車税」を年間1,000~4,500円の幅で引き下げるものだ。

小型車を中心に「自動車税」が減税となる(画像はトヨタ自動車の小型車「ヴィッツ」)

自動車税制の抜本改革を明言

一方で、今回の改正では、クルマの電動化やカーシェアリングの普及など、自動車を取り巻く環境の変化に応じて、自動車関連税制の抜本改革に着手する方針も示した。「『保有から利用へ』の変化などを踏まえて、課税のあり方について中長期的な視点に立って検討を行う」ことを明記したのだ。

つまり、従来は排気量で金額を決めていた「保有」に対する課税から、走行距離など「利用」に応じた課税に軸足を移すとの方針を打ち出したわけだ。こちらは2020年度以降に具体化を目指す方針という。

かねてから、複雑かつ苛重な日本の自動車関連税制を簡素化し、軽減するというのは自動車業界の念願だった。今回の税制改正は、その抜本改革に向けて一歩踏み込んだものとして評価できる。

保有段階で税金を支払う自動車税は、排気量別に税率が引き下げとなる。特に小型車ほど減税幅が大きく、最大で年間4,500円の減税となる。この自動車税は1950年(昭和25年)の創設以来、増税が繰り返されてきた歴史があり、今回は小幅な減税ではあるものの、「創設から70年近く経過した自動車税に初めて風穴が開いた」(豊田章男自工会会長)ことになる。

トヨタ自動車の豊田章男社長は日本自動車工業会(自工会)会長に就任して以来、一貫して自動車関連税見直しの必要性を訴え続けている

だが一方で、エコカー減税の見直しやグリーン化特例の縮小、環境性能別の燃費課税基準見直しなど、実質的な増税となる決定も今回の改正には盛り込まれている。これには、地方税減収対応の財源確保という意味合いがある。これからクルマを買う人は、自動車税の減税とエコカー減税などの見直しをしっかりと把握し、購入車種を選ぶことが必要になるだろう。

ダウンサイズの小型車に手厚い自動車税の減税

2019年度税制改正大綱の本文を見ると、自動車に関する措置については「消費税率10%への引き上げにあわせ、自動車の保有に係る税負担を恒久的に引き下げることにより、自動車ユーザーの負担を軽減し、需要を平準化するとともに、国内自動車市場の活性化と新車代替の促進による燃費性能の優れた自動車や先進安全技術搭載車の普及等を図る」とある。具体的には、2019年10月以降に購入するクルマについては、小型車を中心に全ての区分で自動車税の税率を下げる。減税幅は以下の通りだ。

・660cc~1,000cc:29,500円(現状)-4,500円(減税幅)=25,000円(新たな税額)
・1,000cc~1,500cc:34,500円-4,000円=30,500円
・1,500cc~2,000cc:39,500円-3,000円=36,000円
・2,000cc~2,500cc:45,000円-1,500円=43,000円
※2,500cc超は一律1,000円減税、軽自動車税は据え置きで10,800円

これを見ると、排気量を落としてターボで馬力を向上させる「ダウンサイジングターボ」のトレンドに対応し、小型車の減税を手厚くしたものとなっている。いわゆる「リッターカー」が4,500円と最大の減税幅だ。さらに、二重課税だった自動車取得税も廃止となる。

これだけなら、購入時と保有時で自動車関連税は減税になるわけだが、一方で、今回の改正では、燃費に応じて取得価格の0~3%の税率で課税する「環境性能割」を導入するとの方針も打ち出している。これには環境性能に応じた「燃費課税」としての側面がある。税率は増税後の1年間限定で一律1%を引き下げるが、2年後からは元に戻すとのことだ。

さらに、自動車重量税に適用しているエコカー減税については、EVやプラグインハイブリッド車(PHV)などの他、2020年度の燃費性能を40%以上上回るガソリン車を免税対象とし、それよりも環境性能の低いクルマでは減税幅を縮小する。エコカー減税は、2019年10月の消費増税時に廃止する自動車取得税にも適用しているが、廃止までの半年間は、自動車取得税に対する減税も縮小する。つまり、エコカー減税では減税幅を縮小するという話なので、実質的には増税になる。

さらに、2021年10月からは、自動車税と軽自動車税の「グリーン化特例」をEVなどに限定する。税率を軽減する対象車種を絞る措置なので、これも実質的な増税だ。

つまり、自動車取得税を廃止し、自動車税を排気量別で減税する代わりに、燃費課税を新設し、エコカー減税とグリーン化特例を限定・縮小するという方向性が打ち出されたわけだ。これまで対象車種が緩やかだったエコカー減税も、EVやPHVなどに絞られることになる。自動車関連の税金が、単純に減税となるわけではないのだ。

「保有から使用へ」でクルマと税金の関係はどうなる

今回の税制改正で、与党税制調査会において最も議論が白熱したのが自動車関連税制の減税についてだった。クルマの保有や取得などにかかる税負担を単年度で減らす(自動車税の減税)だけでなく、自動車関連税の抜本的見直しを中期的な課題と明確に位置づけ、「保有」に対する課税から「利用」に応じた課税へと軸足を移していく姿勢を明確にした格好だ。

日本の自動車関連税制は従来、いかにも複雑かつ苛重なものであった。クルマの購入、保有、利用の3段階で、消費税を含め9つもの税金が課せられていたこと自体、世界的に見ても珍しいケースだったのだ。

そもそも、日本におけるクルマへの課税は、クルマを「ぜいたく品」とみなし、戦費調達のための「奢侈税」として課税したことからスタートしていて、その感覚は基本的に変わっていない。「クルマは税金がとりやすい」ということで、ここまできたというのが実情といえる。

日本ではクルマを「ぜいたく品」とみなして課税を始めた経緯がある(画像は日産自動車の「ヘリテージコレクション」にて撮影)

フランスのマクロン政権が「燃料税増税」を発端とする激しいデモで揺れているが、日本国民は、自動車税を黙って納税し続けてきた“優等生”だったわけだ。

しかし今回は、自動車関係21団体で構成する「自動車税制改革フォーラム」が7,800万ユーザーの声を全国47都道府県知事に届けるなど、自動車関連税の負担軽減に向けた要望が高まっていた。こういった動きなどを受けて、自動車税の減税論議が白熱した結果、与党税制調査会は、抜本的な税制体系の見直しを中期的な課題として明確に位置づけることとなったのだ。

自動車税体系の抜本的な見直しは、自動車業界が大転換期を迎え、クルマと人との関係が「保有から利用へ」と変化している状況に対応しているものとして、高く評価したい。だが、実際に重要なのは、その税負担の構造をどう変えていくかである。安易に走行距離だけで課税すると、地方に住む自動車ユーザーや運送業者などが負担増で苦しむことにならないだろうか。プライバシー保護の観点からも、走行距離に応じた課税には課題が多い。

また、自動車関連税全体の減少を防ぐため、どこかの税率を下げつつどこかでは税率を上げるという観点が先行するようでは元の木阿弥となろう。購入から保有、利用までの段階で税体系をしっかりと精査し、「保有から利用へ」という大きな流れを確実に捉えた上で、グローバルレベルの抜本改革に結びつけて欲しいものである。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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