絶滅させるにはあまりに惜しい! 再考したい2ドアクーペの魅力

森口将之のカーデザイン解体新書 第10回

絶滅させるにはあまりに惜しい! 再考したい2ドアクーペの魅力

2019.01.08

2人乗りが優勢の2ドア勢力図

「ザ・ビートル」終焉にも影響? 海外の2ドア4/5人乗り事情

乗れば忘れがたい魅力、無駄も豊かさと感じさせるクルマ

多くの自動車ブランドがSUVを送り出し、クーペのようにスタイリッシュな4ドアを登場させる一方で、減り続けているボディ形状があることに皆様はお気づきだろうか。それは、4/5人乗りの2ドアクーペだ。このまま絶滅の道を歩ませるにはあまりに惜しいので、このボディを愛する者のひとりとして魅力をつづってみたい。

4/5人乗り2ドアクーペの美しさをあらためて見つめなおしたい(画像は左の青いクルマからいすゞ自動車「117クーペ」、トヨタ自動車「セリカ」、三菱自動車工業「ギャランGTO」)

新型「スープラ」も2人乗りに変身

2019年に復活するトヨタ自動車「スープラ」の事前試乗会でプロトタイプに触れて、残念なことがひとつあった。ボディがリアシートのない2人乗りになっていたことだ。

新型スープラを復活させるにあたりトヨタは、「直列6気筒エンジン」と「後輪駆動」という初代からのパッケージングを守るため、BMWのスポーツカー「Z4」との共同開発という道を選んだ。Z4は2シーターのオープンカーであり、プラットフォームやパワートレインの基本を共有するとなれば、スープラも2人乗りになることは予想できた。

新型「スープラ」プロトタイプ(画像)は2シーターになっていた

しかもスープラは、以前の記事で紹介したように、モデルチェンジのたびにホイールベースと全長を短くしてきた、珍しい車種である。その目的のひとつがスポーツ性能の向上であり、この方向性を推し進めた2シーター化は理解できる。

この結果、日本で販売される日本車の2ドア2人乗りは日産自動車「フェアレディZ」、本田技研工業の「NSX」と「S660」、マツダの「ロードスター」と「ロードスターRF」、ダイハツ工業「コペン」を加えて7車種となる。

一方、同じ2ドアながら4/5人乗りの車種は、トヨタ「86」、スバル「BRZ」、日産「GT-R」、レクサス「RC」「LC」の5車種にとどまる。使い勝手の面では明らかに不便な2人乗りの方が多数派という、異例の状況になったわけだ。

希少な存在になりつつある2ドア4人乗りクーペのレクサス「LC」

昔のことを振り返ると、スープラのベースとなった「セリカ」をはじめ、2ドア4/5人乗りの車種はかなり多かった。逆に、同じ2ドアの2人乗りはフェアレディZやトヨタ「MR2」くらいしかなく、そのZさえ「2by2」という名の4人乗りを用意していたほどである。

日本車にも2ドア4/5人乗りの車種が多い時代はあった(画像はホンダ「プレリュード」)

欧米でも減り続ける2ドア4/5人乗りの車種

実はこれ、日本に限った話はではない。我が国以上に2ドアクーペが根付いていたアメリカでも車種は減っているのだ。日本で輸入しているモデルを見てみると、2人乗りがシボレー「コルベット」のみで、4人乗りは同じくシボレーの「カマロ」しかない。

シボレー「カマロ」

ヨーロッパではスポーツカー専門ブランドや1,000万円以上の高価格車を除くと、ジャガーとアルファ・ロメオではかつてあった4人乗りが消滅して2人乗りの「Fタイプクーペ/コンバーチブル」と「4C/4Cスパイダー」のみになり、プジョーやボルボでは2ドアそのものがなくなった。レンジローバー「イヴォーク」はSUVクーペという姿が鮮烈だったが、新型は5ドアのみとなった。

SUVクーペという姿が鮮烈だったレンジローバー「イヴォーク」

クーペとはいえないかもしれないが、フォルクスワーゲン「ザ・ビートル」が販売を終了するのにも、似たような理由があると思っている。同じように古き良き時代のベーシックカーをリバイバルさせたミニが「クロスオーバー」などを展開し、フィアットは「500」(チンクエチェント)に「500X」という5ドアを追加していく中で、オリジナルの面影を継承した3ドアにこだわったのがザ・ビートルだった。しかし、その点にこそ、このクルマがおよそ80年にも及ぶ歴史に終止符を打つことになった要因があるのではないかという気がするのだ。

ミニ「クロスオーバー」
フォルクスワーゲン「ザ・ビートル」

SUVブームも遠因に? 2ドア4/5シーターが減った理由

2ドア4/5シーターがここまで減ってしまった理由は何か。簡単にいえば、4ドアでもカッコいいクルマが作れるようになったことが大きいだろう。

そのひとつはSUVだ。中でも、それまでスポーツカー専門だったポルシェが2002年に送り出した「カイエン」の影響力は大きかった。

ポルシェ「カイエン」

ポルシェを代表するスポーツカーは「911」だが、この1台で全てをカバーできる人は少ない。ほとんどのユーザーは、別に他社のセダンやワゴンを持っていた。ポルシェは911オーナーの“もう1台需要”を狙うべく、SUVを企画したのではないかと思っている。

ところがカイエンには、それとは異なるユーザーが殺到した。2ドアは生活シーン的に無理という人々が、4ドアのポルシェとしてカイエンを選ぶようになったのだ。以前、あるカイエンオーナーに話を聞いた時、「ポルシェは好きだけれど911には興味がない」と言い切っていたのは印象的だった。

ポルシェの成功が、他の多くのプレミアムブランドをSUV参入になびかせる理由のひとつになったことは間違いない。ジャガー「Eペイス」(E-PACE)のように、セダンの「XE」よりスポーツカーの「Fタイプ」に近いデザインを取り込んで、4ドアのスポーツモデルとしてアピールする例も多い。

ジャガー「Eペイス」

「2ドアは買えない」と考える人のためのスポーツモデルという立ち位置を各社が持たせたことは、SUVがヒットした理由のひとつだと思っている。

4ドアクーペ登場も退潮の要因に

もうひとつの理由は、4ドアクーペの登場だ。こちらは1950年代の米国車に設定された4ドアハードトップをルーツとしており、日本車も1970年代以降、このボディを多数用意した。少数派ではあるが、1960年代の英国車にも4ドアクーペはあった。

もともとハードトップとは、オープンカーに装着する(幌ではなくて)固い屋根のことだったのだが、その後、サイドウインドーの窓枠を持たないクーペをこう呼ぶようになった。セダンと比べるとルーフが低く、前後のウインドーの傾きが強いことが多く、2ドアの流麗さと4ドアの実用性を兼ね備えたような車体だった。

しかし、日本車の4ドアハードトップは「車内が狭い」とか「ボディ剛性が低い」といった理由で21世紀初めに消滅する。すると、入れ替わるように登場したのが2004年発表のメルセデス・ベンツ「CLS」だった。続いてBMWが「6シリーズ・グランクーペ」、アウディが「A7スポーツバック」と、ドイツ勢が相次いで4ドアクーペ(A7はリアゲートがあるので5ドアともいえる)をリリースしてきた。

アウディ「A7スポーツバック」

もっとも、彼らは依然として2ドアのクーペも用意していたのだが、一方で、SUVにも低く流麗なルーフラインを特徴とする「SUVクーペ」を設定していた。こちらには最初から2ドアがなく、4ドアのみだった。このことからも、2ドア4/5人乗りクーペの販売台数が減少していたことは容易に想像できる。

4ドアでは得られない独特の魅力とは

でも筆者は、2ドアクーペには4ドアにはない良さがあると信じている。2人乗りの所有歴はないものの、4/5人乗りクーペは現在の愛車であるルノー「アヴァンタイム」を含め3台と付き合っており、独特の世界観に魅せられているひとりであるからだ。

車内の広さというと、後席のスペースを指すことが多い。逆に前席は、スポーティさを出すべくタイトに仕立てる例が目立つ。しかし、2ドアクーペのドアを開ければ、そうではないことに気づくはず。そこには前席優先の空間が広がっているからだ。この開放感、一度味わってしまうとなかなか離れることができない。

2ドアクーペに乗り込むと、独特の開放感が感じられる(画像はレクサス「LC」)

しかも、ドアを開けると前後どちらの席にもアクセスできる。後席に人が乗る場合は前席の背もたれを倒さなければならないけれど、荷物を置くだけならそのままでいい。狭い場所では長いドアが開け閉めしにくく、乗り降りしにくいという声もある。それに対しては、愛車アヴァンタイムのようにドアヒンジをダブルとして、前方にせり出しながら開く手法があることをお伝えしておこう。

ルノー「アヴァンタイム」のダブルヒンジドア

このパッケージングは、流麗なフォルムを生み出すことにも貢献している。4ドアはどうしても後席の居住性に配慮するから、クーペと名乗っていてもルーフラインはセダンに近くなる。一方、2人乗りのスポーツカーでは走りを突き詰める結果、全長もキャビンも短くなるので、流れるようなラインは描きにくい。

とはいえ、2ドア4/5シータークーペが無駄にあふれたクルマだという事実は、認めざるを得ない。でも、これはクルマに限った話ではないが、無駄こそ豊かさを感じさせてくれるものなのではないだろうか。カッコよさと使いやすさの両立は、多くの人が望むことかもしれない。ただ、その結果として大事なことを置き去りにしているようなら、それは残念なことである。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

カレー沢薫の時流漂流 第32回

鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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