ライザップと大塚家具に見た、組織のために大事なたった1つのこと

藤田朋宏の必殺仕分け人 第2回

ライザップと大塚家具に見た、組織のために大事なたった1つのこと

2018.12.12

ライザップに大塚家具、どうして経営不振に?

組織のために大事なことを見誤ってはいないか

仕事には「なぜ自分たちが」が絶対に必要

「この仕事、自分がやらないとダメなんだっけ?」

これを読んでいる皆さんも、そう思ったことはないだろうか。僕の場合は本質的に労働にはまったく向かないタイプの人間なので、1時間ごとにそんなこと考えていたりする。

さて、僕は極端な例かもしれないけど、多くの人にとって「これって、なんでやらないとダメなんだっけ?」という所が明確じゃない仕事は、やっていて面白くないし、捗らないことだろうと思う。

今回は、つまるところ、組織運営を考える上で重要なことは、この「なんのために」というところを、その場で働く一人ひとりがしっかり認識できるようにすることだと言っても良いのではないかと、偉そうに書いてみることにした。

ライザップは「結果にコミット」を貫けばいい

少し前の話だが、ライザップの経営状態が結構な話題になった。僕といえば、世の中、計画ほどうまく行ってない会社なんていくらでもあるというか、計画ほどうまくいかないことの方が多いわけだし、日本中の話題になるほどの規模の会社でもないのに、みんながライザップ、ライザップと言ってるのを見て、ライザップってずいぶんと人気があるんだなぁと思っていた。

印象的なテレビCMで世間に広く知られることになったライザップ

世の中の議論の中心は、「本業にシナジーがない会社を買いすぎてまとめられていない」というもの。中には「負ののれんの仕組みを使って不当に利益をカサ増ししている」なんて報道や、「三顧の礼で招聘したプロ経営者と古参の経営者の仲が上手くいっていない」なんてものまであったりする。そこまでいくと、経済ニュースの形をしているが、もはやただのゴシップニュースだと僕は思う。

実際にライザップの中の人がどう思っているのかは知らないけれど、僕から見えるライザップの本業は「褒めてやる気にさせて結果を得てもらうこと」だ。ライザップの最初の成功は、「糖質制限」という継続的に頑張るにはなかなか根性が必要なダイエットの方法論を、ライザップのスタッフが顧客の一人ひとりを褒めてやる気にさせて結果を出してきたことにある。

そんなライザップが、糖質制限に始まり英会話やゴルフだけでなく多くの「個人」をやる気にさせる事業から、さらに大きく「会社」をやる気にさせて、今よりも良い会社になってもらうことを次の事業に選んだのは、自然なことだと感じている。本業とのシナジーがないとかじゃなくて、本業の延長戦上のまさにど真ん中で戦うことにしたんだなと。

ライザップゴルフも、ジーンズメイトの買収も、やる気に火をつけ、「結果にコミット」させる、という点では同じだ

そしてライザップが、糖質制限に変わる「変えるための手段」として選んだのが、“三顧の礼”で迎え入れたという「プロ経営者」松本晃氏の経営の方法論なんだと僕は思う。同氏の人となりは僕は全く知らないけれど、実績もしっかりある松本氏を迎え入れて、ライザップは素晴らしい「方法論」を手に入れたんだなと思ったのだ。(僕もイチ経営者として羨ましい限りです。)

本業のど真ん中の上で着実に事業の範囲を広げようとした結果、買収した会社の健全化が少々遅れて、当初思ったほどのスピード感では利益が上がらないなんてことは、彼らがやりたいことの壮大さと比べたら些細なことだ。

なのに、どうして社会はみんなでライザップの経営方針を「ホラ見たことか」と叩く方向に回ってしまうのだろうか。そりゃもちろんライザップの株主だったら、買収した各社の再建のタイミングがずれていることを批判する権利もある。しかし、我々のようなライザップの株主でもなんでもない人が寄って集って叩いているのは、なんだか滑稽に見えてしまう。

ライザップがこれまで多くの人の結果にコミットして痩せさせてきたように、同社はこれからも多くの会社の経営を健全化していって欲しいな、とまったくの第三者としての僕はシンプルに願っている。

もちろん全員が糖質制限に成功して痩せられたわけではないのと同様に、買収した会社のすべてが成功するわけはないと思うけれど、結果にコミットするライザップに褒められて、いくつかの会社が蘇ったら、ただそれだけで単純に社会のために良いことだ。世間はもう少し長い目で見て応援してあげれば良いのではないか。

僕も20年ほどコンサルタントや中小企業の経営者やらをしてきたが、つくづく感じているのは、どんな規模の組織でも、一人一人が「自分たちは何を社会に提供することに長けているのか」「今は長けていなくても、将来何に長けたいと思っているのか」という認識を統一するのが、組織のパフォーマンスを最大化させるためにもっとも大事ということだ。

少なくともライザップという組織は、「顧客を応援することで結果を出させる」ことには誰よりも自信があるはずで、実際にそれで成功してきた。つまらない外野の雑音に惑わされず、その自信を保ち続けるような経営をしてもらいたいと切に思う。

まぁ、そんな外野の一人である僕がこんなところで応援しなくても、そんなことはわかってるよって言われそうですけどね。

「この分野で1番」を貫けなかった大塚家具

ところで、もう1つよく話題になった企業に大塚家具がある。

数年前、社長の娘さんを擁するコンサル屋さんたちがつくった大塚家具の再建案を見る機会があった。僕は、「もし、この再建案で進んだら、間違いなく数年以内にヤバいことになる。賭けてもいいですよ」と周りの人に言っていたのだけれど、当時は「お前は相変わらず極端なこと言うなぁ」という反応ばかりだった。

大塚家具 新宿ショールーム(編集部撮影)

IKEAやニトリのようなカジュアルな家具が急速に台頭する環境に合わせて、大塚家具は高級家具とカジュアル家具の真ん中のボリュームゾーンを狙う~という案だ。僕は端的に言うと「こりゃダメだ」と感じた。

当時、なぜか世間ではわからず屋の老害役にされてしまっていた創業者の大塚勝久氏は「自分たちが売っている家具の良いところを丁寧に説明する」というコンセプトであれだけの企業を作ってきた方だ。

だからこそ、僕のような経営者の端くれでもわかるような、「この再建案では、組織をまとめる事は出来ないし、あっという間に会社はバラバラになってしまうだろう」ということは、心の底からわかっていたんだと思う。

その後の数年で大塚家具がどうなったかは皆さんご存知の通り。娘さんを擁するチームに経営権がうつり、大変なことになっていると報道されている。経営状態に関する報道なんていつもだいたいあてにならないが、残念ながら本当なのだろう。

IKEAやニトリが急速に台頭する中で、横軸に値段、縦軸に品質を置いた見栄えの良い絵を見せられながら、高級とカジュアルは他社に任せて、自分たちは真ん中のもっともボリュームがあるゾーンを狙えば大塚家具はまた勝てると聞けば、少しでも早くその戦略を進めるべきだって思う人が多いのもよく分かる。

新宿ショールームにて(編集部撮影)

でも、会社の戦略を考える上で重視しなければいけないポイントは数え切れないほどたくさんあるけれど、一番大事なのは「その戦略の下で人は生き生きと働くことができるか」に違いないのだ。

極端なことを言えば、企業戦略なんていくらでも“正解”があるわけで、一番大事なのは戦略の中身そのものよりも、社長から新入社員に至るまでの全員が「少なくとも自分たちは何に長けた会社であると社会に言いたいのか」をしっかり理解し、共有していることではないかと思うのだ。

特に、巡航状態の会社ではなく、創業時期や、再建時期などの修羅場においては、戦略そのものよりも、全社員の意識が統一されているのが何よりも大事になる。この視点で考えると、高級とカジュアルの間を狙うという絵だけでは、組織の一人ひとりの心を1つにはできないはずだ。少なくとも「我々はこの軸で1番になろう」と明確に言われる方が、よほどやる気が出る。

選択を迫られる辛さ

再建案はどうすればよかったのか。“品質や値段の軸とはまったく違う軸”を考えて、その軸の上では「大塚家具こそが一番である」と思えるような戦略を立てればよかっただけなんじゃないかと思う。すごく単純な話だ。

で、それはもともと勝久氏がやっていたことなのだから、あのタイミングで「どこよりも説明をしっかりしてくれる家具屋さん」を改めて徹底するという戦略でも良かっただろうし、他に何かいい軸があればそっちにふっても良かった。

どの戦略をとっても、結局は高級家具とカジュアル家具の間のボリュームゾーンを狙うことになったかもしれない。でも、それをそのまま口に出すようでは経営戦略として成立してないでしょ、ということだ。

軸を工夫することによって、自分たちの会社を「一番右上」にプロットすることはできたはずで、その軸を考えることが「経営戦略を考える」ことなんだと僕は思う。娘さんチームの中には、本当の意味で「経営」をしたことがある人が1人も居なかったんだろうと、僕は思うのだ。

起業家という辛いことばかりの職業を選んでしまった人間にとって、自分が作り上げてきた会社や従業員たちは、実の子供のように、もしかしたらそれ以上に大切なものなのだ。

当時の勝久氏は、その子供のように大切な会社や従業員達と実の娘のどちらかを選ぶことを娘に強要されて、しかもその苦悩の中で、なぜかマスコミからは頭の固い老害扱いされ、そして結局どちらも手放すことになった。当時の同氏の苦悩を想像すると、なんだか僕もすごい辛い気持ちになる。

その後、勝久氏が始めた会社の方は順調に地固めが進んでいるようだ。娘さんの会社の方も「自分たちはなんのために家具を売っているのか」を、組織としてしっかり取り戻して欲しいと切に願う。まぁ大塚家具の顧客でも株主でもない僕が、こんなところで応援しても、あんまり意味はないよなぁと思いつつも、応援しています。

企業のトップが選択を迫られるのは、とても辛いものだ
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その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

カレー沢薫の時流漂流 第32回

鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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