新MacとiPad Proから読む「iPhone減産時代」のアップル

新MacとiPad Proから読む「iPhone減産時代」のアップル

2018.11.08

方針が変わった? アップルの製品発表会を紐解く

売り上げ安定へ、ファンが求める「手堅いMac」を再評価

iPadはタブレットからコンピュータへ脱皮できるのか

アップルは10月30日(現地時間)、ニューヨークで記者発表会を開き、MacとiPadの新製品を発表した。

発表会場は、米ニューヨークのThe Brooklyn Academy of Music

今回の発表では、iPad発売以来最大のリニューアルといっていいほどの変化を遂げた「iPad Pro」に加え、「MacBook Air」「Mac mini」といった、人気はあるが最近新モデルが出ていなかった製品の改訂が行われた。

特にMacのリニューアルについては、ファンの多くが驚いた。長年待ち望みながら、アップルが応えてはこなかったラインアップだからだ。どのくらい驚きだったかというと、「おかしい! 私たちが思う通りのものが出てくるなんで、アップルらしくない!」という皮肉な声が聞こえてくるくらいである。

「iPad Pro」。iPad発売以来、最大といっていいほどの大幅なリニューアルを遂げた
「MacBook Air」。ほぼ7年ぶりのデザイン刷新であり、2010年代末のノートPCらしい製品になった
小型デスクトップの「Mac mini」も刷新。CPU変更も含め、実に4年ぶりの新モデルになる

それでは、アップルは現在どのようなハードウエア戦略を持っているのだろうか? 新製品群から考察してみたい。

ようやく期待に応えた「Macのリニューアル」

今回の発表のポイントは、簡単にいえばふたつに絞れる。ひとつは「iPadのてこ入れ」であり、もうひとつは「Macの再評価」である。特に、同社の戦略を語る上での大きな変化は後者にあたる。

正直、ニュースバリューという意味では、iPad Proの方がずっと大きいだろう。そして、今後のアップルの売り上げに対する貢献度も、新iPad Proの登場による「iPadの変化」がもたらすものの方が大きい。だが、「アップルが今後どういう会社になろうとしているのか」を考える上では、MacBook AirとMac miniの復活は、分析しがいのある要素だ。

冒頭で述べたように、MacBook AirとMac miniは、長らくリニューアルされてこなかった製品群である。MacBook Airは、CPUなどの刷新こそ2年おきに行われていたが、デザイン的には2011年からそのまま。Mac miniに至っては、2011年にデザインが変わり、2014年にCPUが刷新されて以降、実に4年も新製品がなかった。どちらも、設計は古いが価格が安く、手に取りやすい製品として扱われてきた。

今回も壇上で多くの発表を行ったアップルのティム・クックCEO

特にMacBook Airについて、アップルは2015年以降、明確に「旧モデルを安価に売る」路線と位置づけてきた。メインストリームは、新たに設計し直した「MacBook」と「MacBook Pro」だとしていたのだ。

だが、この路線は成功とは言い難かった。MacBookは、Airのヒット要因である「13.3インチという、世界的に見ると使いやすいサイズ」「高性能なわけでも、劇的に軽いわけでもないが手頃な価格」といった要素を満たせていなかったからだ。

ではなぜAirをアップルが刷新してこなかったのか? その謎は解けないままなのだが、少なくともアップルは、MacBookではAirの人気を引き継げていない、と認めたことになる。ニューヨークでの発表会で実機を短時間だがチェックすることができた。実際よくできた製品で、ヒットする可能性は高い。

長らくリニューアルしてこなかった人気の2製品が合わせて刷新された

Mac miniに至っては、後継機すらなかった。PCのメインストリームがノート型になり、デスクトップも一体型が主流になった昨今、分離型のデスクトップの需要は減っていた。だがなくなったわけではない。特に小型のデスクトップは、PCのことがよくわかっているマニアや、業務で多数のPC(Mac)を必要とする人に根強い需要がある。

アップルはこれまで、MacBook AirにしてもMac miniにしても、消費者の需要を満たしきる製品を出してこなかった。そこにリソースを注入するよりは、iPhoneやMacBook Proに使った方が経営上有利だ、と思っていた可能性は高い。

だが今年、その方針は大きく変わった。Macに関する需要のアンマッチを解消し、ファンが求める「手堅い」Macを発売することで、売り上げを安定させる戦略を採ったのだろう。

背景に見える「iPhone依存」からの脱却

今後もアップルにとって、iPhoneが稼ぎ頭であることは変わりない。だが、スマートフォンのハードウエアは陳腐化しており、そのためハイエンドモデルの価格はジワジワと高価になっている。その結果、今後スマホの買い換えサイクルはより長期化していく。15年前にPCのスペックが陳腐化して以降、買い換えサイクルはどんどん長期化していった。それと同じことが、より速いペースで再現される可能性が高い。

そうなると、アップルとしてはiPhoneを「台数で勝負するモデル」と位置づけるのが難しくなっていく。実際、アップルは11月1日、2018年10~12月期決算より、iPhoneの販売台数を公表せず、売り上げだけを発表する形に変える、と発表した。これは、台数で勝負するモデルから売り上げ・利益率重視に切り換える証であり、「台数だけを見られても経営状況を適切に示さない」と判断しているからである。

かといって、いきなりiPhoneの販売台数が急落するとは思えない。だがハイエンドな最新機種は利益率が良いが台数が出ず、台数は旧機種で稼ぐモデルは広がっていき、結果的に、アップルのビジネスにおける「iPhone依存度」は下がって行かざるを得ない。少なくとも、今のような株価を維持して株主を納得させ続けるには、成長源泉をiPhone以外にも求めざるを得なくなる。

成長源泉としてもっとも有力なのは「サービス収入」の増加だ。過去15年に渡り、アップルは「ハードを差別化するためのソフトやサービスを利用する」というスタンスをとってきた。やれGAFAだ、やれ独占的プラットフォーマーだ、と世間では色々言われるが、アップルの利益はあくまでハードウエアの販売から生まれており、ハードを便利で魅力的なものにするための存在が、ソフトでありサービスだったわけだ。

しかし、アップルはこの方針を改めつつある。サービスを広く他社機器に公開するスタンスにはならないようだが、オリジナル映像の配信を含めたコンテンツビジネスを軸に、「サービスだけでも収益を得る」部分を増やしていく。要はユーザーひとりあたりの収益に着目し、ハードウエアよりも成長率の高いサービス部分の売り上げにフォーカスすることで株主に対するイメージを変えたい……という意図が読み取れる。

もちろん、それだけでは終わらない。現状はiPhoneほど大きな売り上げではないiPadやMacの部門についても、より「売れる」「売りやすい」機種を用意することで、売り上げ増を狙っているのだろう。今回ファンが待ち望んでいたモデルがリニューアルしたのは、やはりそれだけ「売りやすい」からだ。

「新しいコンピュータ」への脱皮を図るiPad

Mac以上に「稼ぎ頭」としてアップルが期待しているのがiPadだ。iPadは初期から完成度が高い製品だっただけに顧客満足度が高い。一方で、「ビュワー」として使う分には性能が陳腐化しづらいので、なかなか買い替えが進まず、急速に需要が満たされ、販売数が伸びなくなっていった。

そこでこれからは、安価な製品を買い替え需要に頼って売っていくのではなく、ビュワーではなく「コンピュータ」としての価値を拡大することで、他社との競合から離れてiPadの市場を作る……これが同社の戦略だ。

そのひとつが今年3月にも発表会が行われた「教育向け」であり、もうひとつが「アーティスト向け」のニーズである。

iPad Proは「ペン」を重視しており、今回も「アーティストが自由に絵を描けるコンピュータ」としての価値をアピールしていた

Macを含むPCの市場は安定的なものになっており、大きく減る要因はないし、いきなり伸びる要因もない。一方、タブレットを「ビュワー」ではなく「新しい個人向けコンピュータ」と定義した場合、市場開拓はまだできる。むしろ、カメラやペンを活用したアプリの市場は、PCでは開拓できておらず、スマホではサイズの問題でやはり開拓できていない。

タブレット市場を「新しい個人向けコンピュータ」にトランジションできれば、PCから一部の市場を奪い、まだまだ成長できる……というのがアップルの発想だ。他のメーカーは、タブレット市場そのものの開拓を諦めた雰囲気があり、「新しい個人向けコンピュータ」としては、教育市場に向けて、低価格なChromebook(Google)を売る流れがあるのみだ。

ただ、この市場開拓が成功しているか、というと、まだ疑問はある。タブレット市場が年率10%・20%の単位で減少しているなか、アップルとファーウェイだけが数を伸ばしている。積極的な製品展開をしているから市場を維持できているのだが、逆にいえば、他社はすっかりやる気をなくしている。

ハンズオン会場で実機を紹介するティム・クックCEO

そこで、アップルはどう「孤軍奮闘」するのか。スマホ市場がiPhoneとAndroidの競争で伸びてきたように、1社で市場を構築するのは非常に困難だ。ファーウェイはタブレットにおいてはまだ非常に弱く、アップルのライバル、というのは難しい。

ハードだけでは市場はひっくり返らない

10月30日に発表された新iPad Proは素晴らしい製品だ。アップルがいう通り「過去最高のiPad」であり、購入した人の満足度はきっと高いだろう。だが、それだけで市場はひっくり返らない。

アップルは数年をかけて、「新しい個人向けコンピュータ」市場がビジネスとして旨味があることを証明する必要に迫られている。そこに旨味があると思えば、他社ももちろん黙っていないはずだ。アップルは単価の高いiPad Proで旨味の大きなビジネスをしつつ、「こっちの水は甘い」と他社にアピールする必要がある。そうやって、スマホの販売量減少をカバーする製品へと育てていくことが、アップルという会社にとっても急務なのである。

そのためには、iOSをよりPC的な汎用性の高いものに進化させる必要があるし、アプリ市場の活性化も必要だ。まだこの市場については、「ファンが欲しいと思うものを作る」だけで伸びる段階ではない。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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