オープンカーでも反感なし? 元オーナーの安東弘樹も認める「MINI」のブランド力

安東弘樹のクルマ向上委員会! 第11回

オープンカーでも反感なし? 元オーナーの安東弘樹も認める「MINI」のブランド力

2018.12.25

自動車ブランドがライフスタイルを提案するのはアリ?

「寝ながら移動できるクルマ」の登場は文化的な危機

流動性が高まる安東さんのクルマ選び、最後に新手が登場!

「MINI」(ミニ)が持つブランド力は「唯一無二」だと語る安東弘樹さん。自動車業界では「電動化」と「自動化」が進み、クルマの無個性化、コモディティ化につながるのではとの見方も出ているが、ミニであれば生き残れるというのが安東さんの考えだ。

ミニの取材でビー・エム・ダブリュー株式会社を訪れた安東弘樹さん(取材風景の撮影:安藤康之)

クルマがコモディティ化してもミニは生き残る?

編集部:先日、マツダを取材した際にも話題になっていたと思うんですけど、電動化と自動化でクルマがコモディティ化していくとすれば、その時にはブランド力がますます大事になると思います。そういう意味で、「ブランドを売っている」というミニは、いいポジションにいますよね?

安東弘樹さん(以下、安):クルマが「家電」みたいになるじゃないですか。そうすると、普通のメーカーだと生き残れないような気がしていて。

オーディオが分かりやすくて、例えば「バング&オルフセン」とか「ブルメスター」とか、ブランドが確立しているメーカーは永遠に生き残るような気がしますけど、日本のいくつかのオーディオメーカーは、恐らく技術はあったのでしょうが、残念なことになってしまいましたよね。そういう意味でいうと、ミニって生き残るタイプのクルマだと思います。クルマのコモディティ化の話って、ミニとしても何か想定してます?

ビー・エム・ダブリューの丹羽智彦さん(以下、丹):ブランド優先の姿勢は、それ以前からやっているので、コモディティ化の流れになったからといって、急に態度を変えたわけではないですね。そもそも、なぜBMWがミニ(ローバー・グループ)を買収したかといえば、ローバー時代のミニは、ある意味、狭い世界でずっとクルマを作っていたんですけど、それでもファンが付いてきてくれて、そのブランド力に非常に魅力があったからです。ミニには、持っている商品より一回り大きいブランド力があるんです。

BMWブランド・マネジメント・ディビジョン プロダクト・マーケティングでプロダクト・マネージャーを務める丹羽智彦さん

:例えば、マツダさんがNA(初代「ロードスター」)のレストアを始めましたけど、ミニでも……やっぱり、この話は必要ないかな?

:あれですよね、ミニをリバイバルするという話ですよね? それをおっしゃる方は、よくいらっしゃいます。ディーラーへ行くと、「そういうこと考えてないの?」とか聞かれたりして。

:ローバー時代のものは、できないんですもんね。ミニのファンは、ローバー時代のミニを完璧にというか、そういうのをやって欲しいんだろうなとは思いますけど。

うちの弟も実はそうで、中古で「40周年のミニ」(ローバー MINI 40th アニバーサリーリミテッドというクルマのこと)、グリーンの綺麗なのを買ったんですけど、やっぱり、壊れるんですって。で、今は手放して、軽自動車に乗っているんですけど。でもそういうのって、ちょっともったいないですよね。BMWに責任はないんですが。

ミニの40周年限定車を手に入れるとは、さすがは安東さんの弟さん、といったところだろうか

ライフスタイルの提案でクルマの間口を広げて欲しい

編集部:で、そのブランドの話なんですけど、ミニは最近、「ファッション」や「住まい」といった分野でコラボ(「MINI FASHION」や「MINI LIVING」などという取り組み)するなど、ライフスタイルブランドとしての見せ方をますます強めている印象です。クルマの会社がライフスタイルまで提案するということについて、安東さんはどう思います?

:アリだと思いますね。私みたいなクルマだけのマニアって、細くは絶対に残っていきますけど、全体としては減っていくと思うんで。だから、クルマの間口を広げるのはアリですよね。例えば、音楽から入る人もいるかもしれないし。実際、歌の歌詞に出てきたという理由からクルマが好きになる人もいるので。

あと、びっっっくりするくらい、周りの人がクルマに興味ないんですよ。だから、こんなにミニバンが増えるんだろうし、「はやく自動運転にならないかな」って声もよく聞きますね。後輩の女性アナウンサーなんか、「自動運転になったらクルマを買う」っていってて、なぜかっていうと、寝てて移動できるからってことなんですよ。

そういう意味でも、いろんなところからアプローチするべきでしょうね。クルマを「寝てて移動できるなら買う」っていう人が増えると、文化的には廃れてしまうと思います。でもまだ、運転の楽しみって、本能的には絶対にあると思っていて。私は初めて買った「シティターボⅡ」(ホンダ)で「ヤビツ峠」(神奈川県にある峠)に行って、運転の楽しさを知ったんですけど。

初めて買ったクルマで「ヤビツ峠」に出掛けたという安東さん

:だから、いろんなアプローチがあっていいと思いますよ。最近はドラマですら、運転しているシーンが本当に少ない。バブル時代は多くて、しかも、いろんな価値観がありましたからね。

私が見たドラマでは、主人公の恋敵が「Sクラス」(メルセデス・ベンツ)に乗ってて、主人公の若い人が「N360」(ホンダの軽自動車)に乗ってたんですけど、N360がSクラスより俊敏に駐車場から出るシーンを、わざと上から撮って入れてあったりしたんですよ。絶対、好きな人が撮ってると思うんですけど。

最近の恋愛ドラマとかで、そういうシーンって皆無で、みんな電車に乗ってるじゃないですか。そういう意味で、クルマというものが、一般の社会からなくなりつつあるような気もするんですよね。だから、音楽でも家でも、例えば、こんな建築だったらミニが綺麗に収まるとか、そういう話でもいいし。

:とっかかりなんですよね。

編集部:クルマの存在感が、日本でだんだん低くなっているとしたら、そんな中で、ミニが持つ重要性って何でしょうか。

:ミニだからこそ重要かといわれると、そこはよく分からないんですけど、そういうメッセージを発信できるのがミニなのだとは思います。そこが、我々の救われているところでもあるんですけど。コラボで新しいアイデアを受け取って、それを世の中に出すことも、ミニのブランドとしては必要です。

:ミニにしかできないことがあると。

:例えば、「くまモン」とコラボしたりとか。

2013年にくまモンが英国のMINIオックスフォード工場を訪れた際、サプライズとしてお披露目された「くまモンMINI」(画像提供:BMW Group)

:いいと思います。クルママニアの中には、そういうコラボに眉をひそめる人もいると思うんですけど、いやいや、そうじゃないでしょと。一昔前の日本のモータースポーツなんかもそうでしたけど、「知らない人は入ってこないで」みたいな。ヨーロッパなんかは違いますよね。どんなに速いクルマを作ったり、魂込めてエンジンを作ったりしても、観る人がいなければ意味ないので。

ミニは「みんなが笑顔になれるブランド」

:以前、ミニの「コンバーチブル」(R57という型式)に乗ってたんですよ。紫っぽい紺にストライプ、ルーフはブルーで。そのクルマをサービスエリア等に停めておくと、必ず何人かが笑顔でクルマを覗き込んだり、若い女性が友達に「これ、かわいい!」とクルマを見せたり、好意で見てくれるんです。

私はクルマが注目されるのは好きではないので、どちらかといえば「知る人ぞ知る」というクルマを選ぶ傾向が強かったのですが、好きな仕様のクルマに乗っていて、皆が反応してくれて、しかも、それが嫌悪感ではないという体験だったんですね。車種によっては、コンバチ(コンバーチブル、オープンカーのこと)だと、ひと目みて「チッ」という反応もあると思うんですけど、ミニだと、皆が集まってくる。あれはすごい訴求力ですよね。ミニにしかない。

安東さんは以前、ミニの「コンバーチブル」に乗っていた(画像提供:BMW Group)

ビー・エム・ダブリューの前田雅彦さん(以下、前):ミニは独特かもしれませんね。うちってあんまり、競合しないじゃないですか。BMWであればメルセデスさんとか、どうしても比べられちゃうんですけど、ミニの場合って、まずフォルクスワーゲンさんと競合することとかないので。強いていえばフランス車ですけど、あちらも「指名買い」(いくつかのクルマを見比べて買うのではなく、そのクルマと最初から決めて買うこと)ですし、ミニもそうなので。

それは、ミニがブランドの価値を高めようとしているからだと思います。今年の「ミラノ・サローネ国際家具見本市」で「MINI LIVING」っていうのをやって、クルマは一切置かずに、ミニのある生活を建築物で表現したんですけど。クルマがなくても、ミニの世界観を感じてもらえるような取り組みを、ちゃんとやってます。それで、ライフスタイルブランドとして確立している部分もありますし。

ミニは2018年4月の「ミラノ・サローネ国際家具見本市」にて、ロンドンの建築事務所Studiomamaと協力し、「MINI LIVING - BUILT BY ALL(構築)」(画像)を展示した(画像提供:BMW Group)

:本当、唯一無二。これで格が上がっちゃうと、それもちょっと違うし。振り返られるデザイン、というかブランド力。うちの奥さんが典型的ですけど、ヘリテージも知らない、ノスタルジーもないって人で、ミニの名前すら知らない人でも、そうなんで。

ミニって、みんなが笑顔になれるブランドですよね。ミニのショールームに一緒に行った奥さんの表情を見て痛感しました。

ますます流動性が高まる安東さんのクルマ選び

編集部:で、最後に安東さん、全ての条件を満たすクルマは中々ないというお話でしたが、依然としてミニ「クラブマン」は購入検討リストに残ってますよね? ただ、車庫の問題が浮上したとか、何かいろいろと状況も変化しているみたいですが……

:そうなんですよ。うちの庭にウッドデッキが付いていたのですが、一度も使っていないので、そこをつぶして3台目の車庫にしようかなと思ってたんですけど、建築法上、できないということが分かりまして。だから、近くで駐車場を借りて3台目を買うのか、買い換えを含め2台体制のままでいくのか(※)、岐路に立っているような状況ですね。

※編集部注:ポルシェ「911 カレラ 4S」とジャガーのSUV「F-PACE」を所有している安東さんだが、仕事にF-PACEで向かうと、特に都内では、大きすぎて駐車場に止められない場合が結構ある。そこで安東さんは、3台目のクルマ選びを進めていた

例えば、ミニをポルシェの代わりに買っても、自分が楽しければ、何の抵抗もないので。それで、もう1台をメルセデスの「オールテレイン」(E220d 4MATICオールテレインのこと)にするとか。オールテレインだと事務所の立体駐車場にも入りますしね。

オールテレインとミニ、MT(マニュアルトランスミッション)があれば「クラブマン」なんですけど、ないので「3ドア」しか選択肢がないのかな、とは思いますね。理想はオールテレインとクラブマンの「ジョンクーパーワークス」(JCW)のMTなんですけど、現実としてないので。そこで、ちょっと浮かんだのが、BMW「M2」のコンペティション……

:おー! それもいい話ですね。

:それはいいですね。

BMWのハイパフォーマンスモデルは「M」から始まる車名を持つ。安東さんの購入検討リストに急浮上した「M2 Competition」(画像)は、最大出力410ps、最大トルク550Nm、後輪駆動の2ドアクーペだ。価格は873万円から

:またうるさくて申し訳ないんですけど、M2 Competitionで、明るいベージュの内装にシートベンチレーションかシートクーラーが付くと嬉しいのですが。

:あー、黒しかないですね。

:本当は四駆がいいんですけど、でも、400馬力を超えてて、3ペダル(MTのこと)もあるので、ちょっと、いいかなと思ったりしてるんですけど。

:あれも楽しいと思いますよ。

:それに、次もポルシェにすると、予算が倍くらい掛かっちゃうんですよ(笑)

「ミニはみんなが笑顔になれるブランド」と総括した安東さん

ガレージの問題が浮上した挙句、最後に思わぬ方向から新手が現れたおかげで、安東さんのクルマ選びがどのあたりに落ち着くのかは、全く見当が付かなくなってしまった。

それはさておき、ミニについてはクルマのキャラクターのみならず、そのブランド戦略についても、安東さんは好感を示した。ポップな感じとプレミアム感を併せ持ち、クルマの作りとしてはあくまで上質であることを「後席ドアの閉まる音」からも感じさせる。その独自性がミニの面白さだ。単なる自動車メーカーからライフスタイルブランドへ、という動きは業界で散見されるが、ミニの現在の姿は、その成功例の1つといえるのかもしれない。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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カレー沢薫の時流漂流 第32回

鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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