“変身”する掃除機「ZUBAQ」に隠された三菱電機の挑戦(後編)

モノのデザイン 第45回

“変身”する掃除機「ZUBAQ」に隠された三菱電機の挑戦(後編)

2018.11.06

2WAYで使用可能な “変身”する掃除機「ZUBAQ」

「前モデルを踏襲しつつ、部屋になじむデザイン」に苦心

カラーを1色に定めた理由など、製品デザインの裏側に迫る

三菱電機から10月1日に発売された、コードレススティッククリーナー「ZUBAQ(ズバキュー)」。部屋に出しておいても違和感のないデザインで、思い立った時にすぐに使える“小掃除”の習慣を叶える商品だ。まさに、新たなライフスタイルを提供してくれると言ってもいいだろう。

製品化への背景や開発経緯を中心に紹介した前回に続き、後編では製品化に至るまでの具体的な苦労話や、課題に対する克服方法について聞いていく。

ZUBAQ誕生の秘話を伺った、三菱電機ホーム機器 営業部 家電営業課の丁子裕樹氏(右)と、三菱電機 デザイン研究所 ホームシステムデザイン部の志村嶺氏(左)

デザイナーに課せられた使命

前編で紹介したとおり、本製品は充電台からの取り出し方によって、ワンアクションでスティック型とハンディ型を切り替えられるという、これまでにはなかった形の掃除機だ。実際にそのスタイルを実現するには、同社の安全基準に加え、「倒れないけれど外しやすい」機構の実現など、思い描いていた以上に乗り越えるべきハードルがあったという。

10月1日発売の三菱電機の「ZUBAQ」。充電台からの取り出し方によって、スティッククリーナーとハンディクリーナーの2通りに変化するコードレスタイプの掃除機。およそ掃除機とは想像がつかない、生活感のないスタイリッシュなデザインで、部屋に出しておき、いつでもサッと使える機動力のよさも魅力だ

一方、デザイナー側に課せられた使命は、家具のように部屋に溶けこみ、かつ前機種であるiNSTICKらしさを踏襲したデザインを生み出すこと。志村氏はデザインプロセスについて次のように語った。

「iNSTICKに比べて、同じ円筒のスティック型でもモーターが小型なので、本体の径を小さくすることができました。一方、ファンがないため、デザインの要素が大きく変わっています。(iNSTICKでは搭載されていた)空清用のフィルターの性能を確保するためには一定の断面積が必要でしたが、今回の商品では(空清を搭載しないため)、まずは軽く見えて軽く使えるために、iNSTICKから何を受け継ぎ、何を変えるかからというところから検討してきました」

志村氏によると、ZUBAQをデザインするにあたって最大の難所は、"表裏"のデザインだった。というのも、ワンアクションでスティック、ハンディ用として取り出せる機構を採用した今回の充電台は、掃除機本体をセットすると、従来は裏側だった面が、収納時には表に出てくる。「使用上の注意など本体に表記しなければならない要素などもあり、それを満たしながらインテリアとして部屋に映えるものをデザインする必要がありました」とも語る。

スタンドにセットした状態だと、パッと見は掃除機とはわからないデザイン。正面から見ると細身で圧迫感がなく、さりげなく部屋に出しておける
スタンドは充電台を兼ねており、サイドにハンディ掃除機用の取り付けパーツもセットしておける設計に

さらに、掃除機として使いやすい“軽さ”を同時に満たす必要もある。本製品はハンドル部分がループ状になっているのも特徴だが、この構造を採用したことにより、ユーザーが自由に持ちやすい位置を握ることができ、ハンディとして使用する際も、スティック掃除機として使用する際も、快適に掃除ができるようになったという。

また、ブラウンとシャインブロンズのツートンカラーを基調にしたカラーリングは、ブラウンの部分が軽量のカーボン素材。「2パートに分けたことが、機能性とデザイン性の両面に生きた」と話す。

モーターやサイクロン部、ダストボックスといった掃除機の要となる部分が、表側に配置されているのがユニークな特長。それらは裏側に装備するのが一般的だが、充電スタンドにセットした際に表裏が逆転することからこの配置になった
本体の重心部が表側になったことにより、このようにヘッドブラシ+パイプを床面に這わせた状態でも掃除しやすくなり、図らずも機能強化となったという
ハンドル部分をラウンド形状にすることで、ハンディクリーナーとして使用する際も、ユーザーが持ちやすい場所を握って快適に掃除できる

カラー展開は1色のみだが、もちろん製品化前の段階ではさまざまな色が検討されたという。

「実際はもっといろんな色を検討したのですが、部屋に出しておくことが前提の商品なので、万能な色で高級感があり、ある程度の存在感もあるということで、この1色が選ばれました」と丁子氏。志村氏は「ベースとして意識したのは木目のブラウン。ほどほどに存在感があり、光の反射や部屋の明るさなどでも印象が変わるので、空間に調和しやすい色と質感を選びました」と明かす。

ラウンド形状のハンドル部分は、そのままスタンド設置時のデザイン意匠にも。アルファベットの「Q」をイメージさせる形状で、ZUBAQという商品名にもつながった

掃除機で「吹き付ける」機能も

本製品には、密かに“エアブロー”というユニークな機能も搭載されている。吸い込むのではなく、キレイな排気を利用してゴミを吹き飛ばす機能だ。同社のキャニスター型掃除機「風神」にも既に採用されているものだが、「コードレスであることによって活用できるシーンや領域がさらに大きく広がる」という理由から、ZUBAQにも採用されたとのこと。

しかし、通常時の排気口にアタッチメントを接続することでブローが可能になる従来の設計をハンディクリーナーに応用する上で、そのままだと排気がユーザーの身体に当たって不快だったり、掃除している周囲の床に当たって埃を舞い上げてしまったりする問題があり、排気口の配置に工夫が必要だった。「ZUBAQでは、そうしたデメリットを抑えながらも、ブローの操作性を両立できるように、排気口とブローの接続部の構造を見直しています」と丁子氏。

“エアブロー”機能。クリーンな排気を利用してゴミを吹き飛ばす機能で、キャニスター掃除機で採用された後、ZUBAQにも搭載された

また、“エアブロー”は特徴的な機能である一方で、多くの方にとってはまだ馴染みのない機能でもある。簡単に使えなければメリットや使いどころが伝わらず、“宝の持ち腐れ”と化してしまう。そこで、「隙間ブラシと同様に、アタッチメントをワンタッチの動作で装着できるようにデザインすることで、サッと利用できるように設計しました」と語る。

確かに、ZUBAQはこれまでになかったまったく新しい形の掃除機でありながら、部屋に置いてあるとパッと見は掃除機とはわからないくらいに"秘密兵器"的なデザインだ。その“奇想天外”さに、多くのユーザーが初めは戸惑い、「どう使っていいのかわからない」というジレンマを抱えている商品と言ってもいいかもしれない。

そのために、難所を隠しつつも、製品の使い方・接し方は"チラ見せ"しなければならないという、多くの意味でチャレンジを感じる商品と言えよう。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

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2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

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