Credit Tech(クレジットテック)とは?

まるわかり! Credit Tech 最前線 第1回

Credit Tech(クレジットテック)とは?

2018.09.18

産業革命以前から信用とそれに伴う金融サービスは多面化を続けてきた

現代ではあらゆる資源の取引量が爆発的に増大

すべての商取引の前提を覆すほどのダイナミックな動きが起きている

「信用スコア」や「評価経済」という言葉を耳にしたことはないだろうか。

現在、日本では「信用」に意識を向けなくとも、国民のほとんどは不自由ない生活を送れる。会社に勤めていればローンを組めるし、現金を持っていれば買い物ができるだろう。そのため、信用を意識する人はあまり多くない。現金の信用が極めて高いお国柄にも、その一因がありそうだ。さらに遡れば、単一民族の村社会を起源とする国民性が、信用を意識することが少ない根本原因かもしれない。

一方で、日常的に「信用」を意識する国もある。アメリカでは、1950年代後半からクレジットカードが浸透し、現在でもその存在感は大きい。「クレジットカードでどこまで支払えるのか?」は一種のステータスシンボルであり、特に金融の領域で、享受できるサービスや待遇を左右する大きな因子となっている。この意味で、クレジットカードは「信用スコア」を見える化した先駆けとも言えるだろう。

アメリカに限らず、クレジットカード(≒信用スコアという考え方)は世界各地で展開され、スコアを上げる、スコアを下げないという感覚もかなり浸透している。「信用」の高低を意識した生活は、すでに日常に溶け込んでいるのだ。

そして近年、日本でも「信用」を取り巻く動きが活発になってきたように感じる。

本連載では、「テクノロジーを用いて、信用情報を新たに創造し、精緻化すること、そして新たな信用を基盤に新しいサービスが成立するビジネス領域」を『Credit Tech(クレジットテック)』と呼び、紹介していく。

第1回の今回は、「信用」に関わるビジネスが盛り上がりをみせる背景を、時代の流れから読み解いてみたい。

なぜいまクレジットテックが注目されているのか?

近年、急速に多面的な担保がなされるようになってきたように見える「信用」だが、実はこれまでの人類の歴史においても、商取引の活性化に伴い、信用の担い手と信用を担保する情報は多面化してきている。まずは、その変遷を簡易的に紹介しよう。    

【産業革命以前】国(教会)が「身分と土地」によって信用を担保
17-18世紀の産業革命以前の西欧列強では、信用とそれに紐づく金融事業は、主に国(や教会)が保証する身分や土地所有によって担保されるものだった。商取引が現代ほど多方面ではなく、流通させるべきお金の総量もそう多くなかったことに加え、貸し付けは国によるものが中心だったため、身分、土地といった限られた情報や資産を担保にするだけで、十分経済が回っていた。

【産業革命後】中央銀行が「所有財やサービス」から信用を担保
産業革命を迎えると多くの資本家が生まれた。彼らは一市民でありながら財を蓄え、これまで以上に多くの取引やサービスの提供を担うようになる。それに応じて、従来の身分や土地以外にも、所有する財やサービスが富の源泉と捉えられるようになった。つまり、土地所有や身分以外に信用を担保する資本が誕生したのだ。

これに伴い、増大する財やサービスを担保とした金融サービスが提供されるようになり、イングランド銀行を走りとする中央銀行がその役目を担うことになった。部分的な銀行業や個別の貸し付けは古来より存在していたが、財やサービスが信用、金融に値する資本として公に共通認識されたのはこの頃が初めてだった。

【1950年代】クレジットカードが誕生し、信用情報機関が「利用/支払い実績」から信用を担保
近代になると、本来お金を保有する個人/法人の購買機会損失を補うため、現金がなくとも同等に信用が付与されサービスを受けられる汎用的な仕組みとして、「クレジットカード」が作られた。商店ごとに独自に提供するいわゆる"ツケ"は以前より存在していたが、多くの商店で汎用的に利用できる後払いの仕組みはクレジットカードが世界初である。

クレジットカードは、利用開始時にはその個人/法人に対して国・銀行が担保する従来の資本を信用の前提とするが、実績が蓄積されるにしたがい、「利用/支払い実績」が信用を担保するようになる。クレジットカードの実績に紐付いた信用と、それを担う信用情報機関の誕生である。

このように、信用とそれに伴う金融サービスは、「従来の信用情報を基盤とする仕組みだけでは、スムーズかつ誠実な取引を行うにあたり、摩擦が大きくなる」という事態に直面するたびに、信用の担い手と信用を担保する情報を多面化させてきた。そして現在、その新しい波が来ている。

【現在】各民間企業が保有する「さまざまなビッグデータ」により信用を担保
インターネットの登場に代表される近年のテクノロジーの発展に伴い、顔の見えない相手との取引や、CtoCマーケット、グローバル展開するECサービスなど、これまでにない新しい取引形態が多数成立した。結果として、個人/法人を問わず、ヒト・モノ・カネ・情報など、あらゆる資源の取引量が爆発的に増大している。

それに対して、国や銀行や信用情報機関が担保してきた従来の信用のあり方だけでは、担保の質・スピードともに、不十分になってきている。例えば、国を跨いでの取引には、ある特定の国や銀行が保証する信用では不十分だし、CtoCにおいてはお互いの信用をわざわざ問い合わせて確認する手間はかけにくい。また、銀行やクレジットカードのアカウントを保有していない人も存在する。ここにきてまた、新たな信用の担い手と信用を担保する情報が必要になった。

そして、テクノロジーの発展した現在においては、民間企業がその担い手だ。各社が競い合うように、自社のユニークなビッグデータをもとに信用を担保し始めている。例えば中国のアリババは、自社サービスの購買歴と決済歴をもとに独自のスコアリングサービスを展開。LINEやメルカリも、自社のプラットフォーム上のコミュニケーションや売買のビッグデータをもとに、新しい信用のあり方を模索している。私の所属するネットプロテクションズも、従来の信用情報に紐付かない自社与信による後払いサービスを展開し、そこで得た1億件以上の購買歴と決済歴をもとにサービス改善や開発を推進することで、増大する商取引をよりスムーズにしている。

ここまで見てきたように、実は信用の担い手と信用を担保する情報はこれまでも増え続けてきた。そのため、信用が多面化していること自体に新しさがあるわけではない。一方で、信用の担い手と情報がここまで急激に、爆発的に増えている状況は、過去に類を見ない。この動きは日本のように、単一民族ならではの暗黙知的信用を強固な基盤とする社会においてですら、すべての商取引の前提を覆す可能性を秘めているほどの、非常にダイナミックな動きなのだ。

なぜいまクレジットテックが注目されているのか?

答えは明快だ。

人類の商取引の基盤が、いままさに、有史最大とも言える規模とスピードで、変革しようとしているからである。

次回は、テクノロジーによって可視化されてきた「新しい信用情報」について、具体的な内容を紹介したい。

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

藤田朋宏の必殺仕分け人 第4回

その面倒な組織カルチャー、印鑑が原因ですよ

2019.03.18

印鑑業界による印鑑文化の優位性アピールが話題

会社経営者として感じる、捺印作業の面倒さ

「サイン文化」と「印鑑文化」で変わる組織カルチャー

行政手続きのオンライン化を目指す「デジタル手続き法案」をめぐり、全日本印章業協会がアピールした「印鑑のメリット」が話題になっている

「代理決済できるという印章の特長が、迅速な意思決定や決済に繋がり、戦後の日本経済の急速な発展にも寄与してきた」(原文ママ)というものだ。

「ハンコならこっそり代理決済ができる」などと、身も蓋もなく自ら印鑑廃止を後押ししてしまいかねない意見が出てしまったことは興味深い。
でも僕は、ただのバイオテクノロジー屋なので、ITを活用した効率化しますよ業界の回し者でもなければ、印鑑業界の人を敵に回すメリットだってないので、特にこの点について深く言及しないし、「日本における今後のハンコをどうするべきか」なんてことを掘り下げて云々するつもりもない。

ただ、日本を含む4カ国でスタートアップを立ち上げた経験から、企業の組織カルチャー形成に、承認方法としての「印鑑」と「サイン」の違いが、とても大きな影響を与えているのではと実感した話を書いておきたい。

日々、何かと多すぎるハンコ作業

まず共有しておきたい事実は、日本で会社を経営すると、毎日ものすごい数の代表印や銀行印や社印を押さなければいけないということだ。(会社の印鑑って3種類あるの知ってました?)

お客さんと契約してお金をいただくときに契約書に捺印するのはイメージできると思うが、その後もお金が銀行口座に無事入るまで、受領やらなにやら契約書だけでなく、さまざまな書類にとにかく捺印をしまくる必要がある。

また、家賃を払う、プリンターのトナーが切れる、実験試薬を買うなどなど、とにかく会社を運営する活動の一つ一つに対して、それぞれ細かくおびただしい数の印鑑を押す。法人が国や地方自治体に税金を払う時はもちろん、社員のあれこれも、例えば社員の誰かが結婚したり引っ越したりするだけでも印鑑を押しまくる。自分で会社をやってみてつくづくわかったが、とにかく捺印の数が膨大だ。

しかも、びっくりすることに、民間企業も市町村も、同じことをするために、それぞれがまったく違うフォーマットの書類に捺印を求めてくる。

こうして、大量な上にフォーマットがまったく違う書類を毎日渡されて、決められた位置に決められた種類の捺印をすることは、仮に契約書や書類の中身をまったくチェックしないで無責任に捺印したとしても、結構な時間を必要とする作業だ。

捺印にかける時間が惜しい

しかもうわの空で押していると、銀行印を押すべきところに代表印を押し間違えてしまったり、インクが簡単にかすれてしまったりするのが印鑑だ。人生において、こんな捺印ミスなどという程度のことで書類を作り直してもらう羽目になった回数を考えただけで、こんな単純な作業に失敗する情けなさとと、書類を作ってくれる従業員への申し訳なさで、どこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

そう、僕は毎日、隠れてしまいたい気持ちになっているのだ。

なぜ、日本から印鑑はなくならないのか

我々の会社のように、たとえ社長だろうがあっちこっちに、営業に謝罪にと、せわしなく飛び回わることで、なんとか会社の体を保っているような規模の企業の方が世の中には多いと思う。そんな"貧乏暇なし社長”がこの捺印という物理的作業に忙殺される時間というのは、正直いって無駄以外の何物でもない。

にもかかわらず印鑑を押すという文化が日本に残っているのは「捺印するという作業」は、誰かに頼めてしまうからなのだと思う。多くの会社において「捺印をし続けるという作業」を自分でやっている社長はあまり居ないのかもしれず、ここが、すべて自ら書かなければいけないサインとの最大の違いなのだろう。

ちなみに、僕の場合は「捺印をし続けるという作業」だけを人に頼むような仕事の依頼の仕方は好みではないので、あちこちに会社を立ち上げては、担当者に「代表取締役」の役職ごと譲るようにしている。

海外の「サイン文化」は印鑑以上に面倒?

冒頭にも書いたが、僕は日本以外の3カ国でも会社を経営している。言うまでもなく日本以外の国は、承認の証としては「サイン」が一般的だ。

日本の会社同士の契約書の場合は、代表者の名前の脇に代表印と社印を、契約書を閉じた裏面に割印を一カ所押す形式であることが多い。つまり、二者間の契約であれば、先方用の契約書と当方用の契約書をあわせて、計4カ所の代表印と計2カ所の社印を押せばよい。

ところが、海外の契約書は、すべてのページにサインをしなければならない。海外の契約書は「実際にそんなことは起きないって」ってくらい、ありとあらゆる場面を想定した契約書になっていることが多く、とにかく契約書が長い。

感覚として、同じような内容の契約をするのに、日本の会社同士の契約の5倍~10倍のページ数になっても驚かない。

つまり、ちょっとした契約書でも軽く100ページを超えてくるわけだが、このすべてのページに手書きでサインをすることを想像して欲しい。契約書の中身を読んでただただサインを書き続けていると、「こんな作業に時間を使い続けてていいのだろうか」という自問の気持ちが芽生えてくる。

その組織カルチャーの差、ハンコとサインの差が原因ですよ

言うまでもなく、サインは誰かに代わりに書いてもらうことはできない。では、サインを書く物理的な時間を減らすために、何が起こるのかというと、「権限委譲」が進むのである。

日本の会社だと当たり前のように社長の名前で締結する規模の契約でも、海外の会社だと担当部長あたりの名前で契約を締結してくる。

もしかしたら、日本の会社のカルチャーだとそれは失礼なことに当たるのかもしれないが、サインを前提とした会社において、会社のすべての契約を社長名義で契約していたら、社長の一日は「サインを書く」という作業だけで終わってしまう。だから、どんどん権限委譲をしていくしかない。

日本の大企業の合意形成や意思決定のあり方を分析する文脈において、「日本の会社は権限委譲が進んでいない」とか、「プロジェクトごとの意思決定者の所在がよくわからないから、スピード感が遅くなってグローバル競争に負けてしまう」などという指摘を頻繁に見る。

特に近年流行りの「日本企業のホワイトカラーの生産性を高めましょう」という議論の多くでは、日本企業のこういった特殊性の原因を、日本人の歴史的・文化的背景や、国民性が理由であると結論づけている。

だからもっぱら、風通しがよく責任範囲が明確で、意思決定の早い会社にするために、せっせと組織構造をいじったり、管理職に研修をしたりと、コンサル屋さんが儲かるだけの努力に大きなお金を払うことになっているのだが、大きな効果が得られているようにみえない。

僕の考えは、特殊性の理由がちょっと違っていて、「その組織カルチャーの差って、捺印とサインの差が本質的な原因ですよ」と、わりと確信に近い自信を持っている。

捺印の作業だけを誰かに頼むのではなく、捺印をする権限ごとどんどん頼んでしまえばいい。ハンコにウンザリしている世の中の社長さん、そう思いません?

(藤田朋宏:ちとせグループ 創業者 兼 最高経営責任者)

連載バックナンバーはコチラ

関連記事
鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

カレー沢薫の時流漂流 第32回

鋭すぎる言葉で物議を醸す「子供部屋おじさん」論議

2019.03.18

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第32回は、実家暮らしの男性に降りかかる「子供部屋おじさん」論議について

「子供部屋おじさん」という言葉が注目されている。言葉自体は2014年あたりからあったそうだが、今また脚光を浴びているそうだ。

「○○おじさん」「○○おばさん」という呼称には、「アイカツおじさん」のように秀逸かつもはや「Sir」級の「称号」と言って良いものもあるが、大体が蔑称である。

その中でもこの「子供部屋おじさん」の蔑視ぶりたるや、である。意味はわからなくても本能で「馬鹿にされている」と察することができる。

「子供部屋おじさん」とはどんなおじさんを指すかというと、成人しても親元を離れず実家の「子供部屋」で暮らし続けるおじさんのことである。「パラサイトシングル」を、言われた相手の血管が切れるように魔改造した言葉だ。言葉としては「上手いこと言うな」と感嘆するしかない。

単に「実家住みのおじさん」という意味ではなく、「いい年をして親から自立せず、自分では何も出来ない、中身は子どものままのおじさん」という痛烈な批判が込められている。

この「子供部屋おじさん」は、ひきこもりやニートとは違い、仕事はちゃんとしている場合が多い。だが逆に「実家を出ようと思えば出られるのに出ない」という点が余計「甘え」と見なされ、ここまでの鬼煽りを食らう羽目になったとも言える。

このように世間からみっともないと思われがちな「実家住みの成人」だが、本当に彼らは社会の病巣であり、親から見れば寄生虫なのだろうか。

一人暮らしは今や「修行」かもしれない

子供部屋おじさん含むパラサイトシングルにも言い分はある。まず「実家から出るメリットが見いだせない」という理由だ。

実家が持ち家の場合、一人暮らしをするよりも実家住みの方が経済的には圧倒的有利だ。親側からしても、純粋に寄生されるのは厳しいが、生活費などを入れてもらえるなら、逆に助かるという場合もある。

また職場からの距離も実家から通った方が近いと言うなら、わざわざ経済的負担を負いながら、場合によっては遠距離通勤をする「一人暮らし」というのは「修行」という意味しかなく、昨今盛んに言われる「コスパ」「合理化」という観点から見ると「正気か」というような無駄でしかない。そのため、インフルエンサー的な人が一発「まだ一人暮らしで消耗してんの?」と言えば、容易に世論が傾いてしまいそうな気がする。

しかし「修行という意味しかない」と言っても、その「修行」に意味がないわけではない。一人暮らしが人間に自立と成長を促すのは確かである、自分のことは全て自分でやらなければいけないのだから当然だ。

逆に、衣食住が保証された実家で、お母さんにご飯と身の周りの世話を全部やってもらっていたら確かに子供となんら変わりないし、もし仮に結婚して家を出たとしても、今度は嫁に母親と同じことを求めるだろう。

結果として、「見た目は中年、中身は子供、価値観は団塊」というバランス感覚皆無の生物が爆誕することになりかねない。そういった意味では、いかに合理的でなかろうが、一人暮らしをする意味はあると言える。

だが、親の方が子どもに「実家にいてほしい」と望むケースもある。

前に「増加する共倒れ家庭」という、タイトルからして明るい要素皆無のテレビ番組を見たことがある。老齢一人暮らしの父親の元に、非正規雇用で自活できない息子が帰ってきて、そのせいで生活保護が打ち切られ、ますます困窮するというマジで暗い所しかない話だった。

しかし、父親の方が息子に対し「迷惑だから出て行ってほしい」と思っていたかというと、そうではなく「自分が老齢で何があるかわからないので居てほしい」と言っていたのだ。

このように、高齢の親からすれば、子供がいてくれるのは「安心」という面もある。ほかにも、介護のために実家に戻って来た者もいるのだから、一概に「子供部屋おじさん」とバカにすることはできない。

「子供部屋おじさん」がここまで燃える理由

そして、この「子供部屋おじさん」に今更激烈な反応が起こっているのは、「おじさん」と性別が限定されているからだろう。

当然「子供部屋おばさん」だって存在する。私も結婚して家を出るまで実家にいたし、成人すぎても小学校入学の時買ってもらった学習机を使っており、もちろん身の周りのことは母親を越えてババア殿にやってもらっていたという、どこに出しても恥ずかしくない「子供部屋おばさん」だった。親は私を家から出すのに相当勇気がいったと思う。

しかし、バカにされているのは専ら「子供部屋おじさん」の方で、言葉自体も「ブサイク」には「ブス」ほどの破壊力がないように、「おばさん」より「おじさん」の方がどう考えても「強く」感じる。

「子供部屋おばさん」にパンチが足りないのは言外に「女はまあ実家住みでもいいんじゃね?」という見逃しがあり、逆に男には「男のくせにいつまでも親の世話になってみっともない」という、男女差別があるせいではないだろうか。

ネットを開けば、ジェンダー問題で毎日ひとつは村が燃えている昨今である。「子供部屋おじさん」が、そっちの観点でアンコール炎上しても不思議ではない。

当然だが、一家の家計を支え、親の介護をしながら家事までやっている「子供部屋おじさん」もいれば、ろくに家に金もいれず、親に三食用意してもらっている「子供部屋おばさん」もいる。もちろんこれはおじさん・おばさんを入れ替えたって言えることだ。

男だから、女だから、で言い切りが出来ないように「実家暮らし」という属性一つでは何も断言することは出来ないのである。

関連記事