不正アクセスのその後、ソフトバンク・テクノロジー 辻氏が語った体験談

不正アクセスのその後、ソフトバンク・テクノロジー 辻氏が語った体験談

2017.08.29

ソフトバンク・テクノロジー プリンシパル セキュリティ リサーチャー 辻 伸弘氏(写真は2016年撮影)

ソフトバンク・テクノロジー(SBT)が7月24日に公表した「不正アクセスによる情報流出の可能性に関するお知らせとお詫び(第一報)」。ソフトバンクグループのICT中核会社であり、セキュリティソリューションを基幹事業の一つに据える企業のセキュリティインシデントであるだけに、注目を集めた。

今回、同社のプリンシパル セキュリティ リサーチャーとして著名な辻 伸弘氏に、事の経緯と自社で起こったインシデントにおける新たな発見、改めて伝えたいことについて話を聞いた。

SBTに何が起こったのか

簡単に事件をおさらいする。ことの発端は7月17日、同社のセキュリティ監視チームがマルウェアの実行と通信のブロックを検知したところから始まった。マルウェアは「仮想通貨採掘プログラム」、いわゆる"マイニング"を行うものだ。結果的に、標的型攻撃やばら撒き型攻撃に類するマルウェアではなく、攻撃者が取引先情報にアクセスした痕跡は第三者機関の調査で確認されなかった。

辻氏によると、今回のケースで問題となったポイントは4つある。

  • アカウント管理の不備(アカウントの整理、不要なアカウントの削除など)

  • 不適切な設定のパスワード(推定されやすいパスワードの利用)

  • 検証サーバーが外部公開されていた(アクセス制御の不備)

  • 検証サーバーにおいて多数の実データファイルを管理していた

これらの要素が複合的に絡み合ったことで「お客さまの情報を危険に晒してしまった。大変申し訳ありませんでした」(SBT 広報部)。ただし辻氏が「周囲から『個人情報の漏えいが(第三者機関からも)認められなかった事故で、公開するほどの事象なのか?』」と言われたように、マルウェアプログラムの性質上、そして実際のフォレンジック調査の結果からも、会社として公表する根拠に欠ける。

「過去の事件・事故の事例からすれば、このレベルは『調査の結果として漏れていなければ公表しなくていい』と言えるかもしれません。ですが、会社として、携わった多くの人間が公表するという意思を共有していましたし、社長の阿多も『すべてを明らかにする』という意思を持っていました」(辻氏)

その情報公開の範囲は、

  • 不正アクセスの概要

  • 漏えいの可能性のある担当者情報の内容、件数

  • 対処の時系列

  • 今後の対応

  • マルウェアのファイル名、ハッシュ値、通信先URL

と広範、細部に渡る。

「マイニングソフトですから、業種・業態を問わず幅広い企業に影響をおよぼす可能性がある。ハッシュ値で使用されたファイルの特定が可能ですし、そういったものを管理するソフトが入っていない企業であっても、通信先のサーバーアドレスがわかればUTMやプロキシサーバーでブロックできる。通信先の情報はマイニングプールと明確にわかるもので、通常の業務では"ありえない"もの。事前のフィルタリングや、ログからの痕跡を見つけ、早期に対処するための有効な手法だと思います」(辻氏)

これまでの活動が糧に

辻氏をご存じない方に説明すると、セキュリティ リサーチャーとして前職時代からさまざまなインシデントに携わり、1人CSIRTといった各種セキュリティイベントの独自調査活動も行ってきた。またマイナビニュースでも情報セキュリティ事故対応アワードの実行委員長を務めており、インシデント分析・評価だけではなく「どのようにインシデントを情報公開すべきか」といった観点でも活動してきた。

「アワードで『この対応が良かった』『こっちの方が多角的に分析できている』といった評価を、ほかの審査員と繰り返しこなしてきたことが、今回の対応に活かせたと感じています。単純に事件・事故をまとめていただけでなく、それらの例から見出すべき教訓は何か、それを元に今回の情報公開へと活かしました。これは、今までに情報を公開してくださった数多くの組織の方々のおかげです」(辻氏)

誤解を招く前に断るが、あくまで今回のインタビューは「SBTがインシデントを起こした」という事実を元にした内容だ。

しかし、辻氏の言葉や筆者の感想を含め、非常にポジティブな言葉が並ぶ。それは、「情報が漏えいしてしまった可能性がゼロではない」という事実は変えられず、「何が起きたのか」という事態の把握と、「起きてしまったことを元に、どう対処すべきか」という対策の検討が、SBTにとって重要だという考えがあるからだ。

インタビューで、「(情報公開した理由は)第一にお客さまのため」と辻氏は語ったが、責任を負うべきはあくまで顧客に対するもの。顧客に対する責任を果たして、その上で「次に同じ事態に陥らぬように何をすべきか」を建設的に議論する。そのための土壌作りとして、こうした情報公開の事例を増やすことの契機になるのではないかと感じた取材だった。

現場が萎縮しないようにする"一言"

話をインタビューに戻そう。

7月17日の14時前にマルウェアを検知してから、20日に不正アクセスを受けた形跡を確認するまでの間、19日に辻氏は対応メンバーとして現場に入った。「マルウェアメールが届いたといったことは日常茶飯事。当初は呼ばれることはありませんでしたが、いよいよ雲行きが怪しくなってきた19日から参加しました」(辻氏)。

辻氏の役割は現場のオブザーバー。代表取締役社長 CEO 阿多 親市をトップとする経営層と、当事者である現場のサーバー担当部門、対外広報部門、顧客に対する説明を行う営業部門、そして調査を依頼した第三者機関といったそれぞれの立場を俯瞰する形で、時にはそれぞれの話を咀嚼する潤滑油的な役割を果たしていたという。

「始めにも話しましたが、『なるべく多くの情報を公開しよう』というのが最初のディスカッション。その場で一つ象徴的なことがあったんです。顧客の現場に立ち会う時にもよく話すんですが、『今回の事件が起きた根本的な原因を作ってしまった人と、その上司は誰ですか?』と尋ねました。それはもちろん、"吊し上げ"のためではなく『大丈夫ですよ』という声かけ。インシデントは組織の問題であり、個人の問題ではなく、その方々が今回の当事者となったのもたまたまと言えます。」(辻氏)

実は第一報公開前、流出した可能性のあるデータはリリースよりもいくばくか少なかったという。この声かけがどう作用したのかわからないが、担当者がほかのデータもサーバー内に保存されていたことを報告し、リリース公開後に悪い情報が次々と出てくる事態は避けられた。

「人間の心情として、隠したがるのは普通のこと。役員会議に上司とともに出席するとなれば大変なことですから。でも大切なのは『これからどうするか』。前に向かって進むためには"吊し上げ"ではなく、一体となって原因を究明することが重要だと考えています」(辻氏)

経営陣が果たすべき役割

現場は一体となった。では経営陣はどうか? 辻氏は今回の対応が外部から評価される結果となった理由の一つに「社長(阿多氏)のリーダーシップ」を挙げる。

「今回の事態を把握した時、阿多は海外出張の予定が入っていたんです。トップ不在という環境は避けたかったので『出張をやめてもらう』ということがすんなり決まったんですが、実は海外企業とのサインを必要とする出張でした。主要事業の強化という命題があるにも関わらず、その意思決定が非常に早かった。当事者意識を持ち、最善を尽くすことだけにフォーカスしていたなと思います」(辻氏)

SBTに限らず、詳細なインシデント対応の事例共有は近年徐々に増えつつある。もちろん、現場チームが細部の把握と情報を上に伝えることは大切だが「トップの立ち居振る舞いが現場のチームを円滑に回す非常に大きな要因だと思う」(辻氏)。経営陣の中には、特に非IT企業においてはセキュリティに明るいとはいえない人物も居るだろう。だが、「不得意な部分は現場の意見に耳を傾けつつ、上の人間の発言を必要とする場面でしっかりとした意思決定をしてくれる人物、経営陣が大切だと思う」(辻氏)

現場の一体感と経営陣の統率力。その双方が揃っていれば万事解決と言いたいところだが、辻氏は唯一の課題として、この両者の間にあるささやかな"溝"を挙げた。

「インシデント対応のタイムスケジュールが早いか遅いか、当事者になってみるとわからないのが正直なところ。外部から『早いね』と評価いただきましたが、強いて言えば各部門と経営層のコミュニケーションがもっと円滑にできていればという場面はありました」(辻氏)

今回のようなインシデントでは、一部門ですべての対応を完結できるわけではない。顧客に対する責任、外部への公開、そして経営へのインパクト、第三者評価。それぞれ担当部門がある以上、普段は相対することのない人たちとのコミュニケーションが必要となる。

「どう動けば良いのかわからず、何かやろうとしてもそれを他部門に対して口出ししても良いのかわからない。管理者は誰なのか、経営陣を始めとする人間が意思疎通の差配をもう少しできていれば、アグレッシブにもっと動けていたかもしれないですね」(辻氏)

しかしこれもまた、誰が悪いという話ではなく、組織として経験不足であったことに起因するかもしれないと辻氏。

「標的型攻撃の模擬テストや、普段からインシデントレスポンスに対する考え方を会議などでお互いに認識する必要があります。組織に浸透させるということは難しくて、『緊急なのか』『重要なのか』といったプライオリティ、それらをあうんの呼吸で伝えることは、やはり普段からのコミュニケーションが大切だと思います。ただ、こういう会社だからかもしれませんが、インシデントが起こって『対処すべき事柄がどんどん増えていくことが嫌だ』という空気を出す人がいなかったことは、幸いでした」(辻氏)

「僕がいたから、ではない」情報公開の流れ

SBTに辻氏がいるという事実は変わらない。しかし、「ほかの企業に辻さんはいませんよね?」という質問を投げかけた。

「『情報を出す』という意思決定をしたのは社長の阿多です。確かに僕が言わなかったら出なかった細かい情報はあるかもしれません。ですが、個人の誰かに依存するのではなく、組織として適切に情報を公開できるか。それが大切なんです」(辻氏)

今回の情報公開は、「自分たちが起こしてしまったことは、こういう公開の仕方がある」というケースにならなければならないと思ったと辻氏は振り返る。この事例が"テンプレート"としてさまざまな企業に活用されることはあるかもしれないが「この形でなければならないという押し付けになってほしくない」(辻氏)

辻氏が繰り返し説明したことは、経営陣と現場が一体となった対応だ。それに関連した印象的なエピソードが一つある。

経営陣を含めた最初の会議後、辻氏は阿多氏と喫煙室で一緒になったそうだ。普段はフランクに話しかけてくる阿多氏が、土日出勤して対応しようとしていた辻氏に対して「よろしくお願いします」と一礼したそうだ。現場と経営陣が一方通行にならず、共に解決へと歩みを進める。そういった機運をトップが自ら作る姿勢は学ぶところがあるだろう。

SBTの例で言えばCEOの阿多氏だが、一般企業においてはCIO(CISO)などがトップとして対処するケースが多いはずだ。一体感はもちろんのこと、迅速な意思決定と、拙速な対応にならないために現場の情報をしっかり吸い上げる体制の構築、そして何より「事後の対処」にフォーカスしていくことが大切であるはずだ。

この短文で言うは易く行うは難しといったところだろうが、100点満点ではないにせよ、それに近いことをSBTは行った。同社は8月中に最終報として、再発防止策の完了をアナウンスする予定だ。情報漏えいに対して感情的になるのも当然だが、冷静な分析・対処が次の漏えい抑止に繋がることも、忘れてはいけない。

感動に流されがちなスポーツと「プリンセス駅伝、四つん這い走行」

カレー沢薫の時流漂流 第15回

感動に流されがちなスポーツと「プリンセス駅伝、四つん這い走行」

2018.11.12

漫画家・コラムニスト カレー沢薫さんの社会派連載!

第15回は、「プリンセス駅伝の四つん這い走行」問題について

今年は「パワハラ」「黒い交際」「殺人タックル」など、スポーツ界が荒れに荒れた。

スポーツにつきまとう「感動」という尺度

というよりは、今までずっと「わかり哲也」の背景ぐらい荒れ続けていたが、関係者専用のプライベートビーチだったため、一般人の目につかなかっただけのような気もする。

その一方、ワールドカップでは予選を批判した奴は全員死んだのかというぐらい本戦の健闘が称えられたり、夏の甲子園では金足農が秋田県勢として103年ぶりに決勝に進出し大きな注目を集めたりと、感動的なこともあった。

しかし、結果だけを言えば、ワールドカップは1回戦敗退だ。金足農も決勝で敗れ準優勝。逆に優勝したのに金足農の陰に隠れた大阪桐蔭が可哀想なぐらいだ。

つまり、見る側はスポーツに対し、時に結果よりも「感動」を求めがちということだ。金足農が仮に優勝していたとしても、その勝利が「地獄甲子園」式で得た物なら讃えられなかっただろう。

スポーツに感動を求めるのは悪いことではない。私のような、床を這っているコードでこけるような先のない中年は、もはや他人の活躍に乗っかって泣いたり笑ったりするしかないのだ。

だが、「感動した! 痛みに耐えてよく頑張った! 」という言葉があるように、スポーツの感動には「選手が無理をする姿」も含まれていることは否定できない。その無理が「43度の風呂」レベルならまだ良いが、選手生命、さらには最悪命を脅かしかねない時もある。

インターネット大相撲では済まない「プリンセス駅伝」問題

そんな、文字通り「選手が痛みに耐えて頑張った」事件が、先日行われた「プリンセス駅伝」で起こった。女子駅伝だからプリンセス駅伝なのだろうが、私が走者だったら相当居心地の悪いネーミングだ。

その駅伝の中で、10代の走者が中継所の直前で走行不能となったが、何と四つん這いの状態で流血しながらタスキをつないだという。四つん這いで移動した距離は約200メートル。私だったら小一時間かかる、結構な距離だ。その選手がリードの外れた柴犬ぐらいのスピードで四つん這い走行した、というなら制止する間もなくタスキは渡されていたかもしれないが、満身創痍の状態なら相当時間がかかっただろう。

当然、その姿には「誰か止めろよ」と批判が噴出した。しかし、批判がある一方で「感動した!」と、流血四つん這いで走る女子の姿にバッチリ感動した勢がいるのも事実だ。それに対し「怪我しながら走る選手を美談にする勢を許さない勢」が現れ、いつものインターネット大相撲に発展しているのはよくあることなのだが、これはかなり複雑な問題なのである。

監督が倒れた選手に「お前棄権したらわかっとるやろな? 」とアイコンタクトをしたり、観客が「俺たちを感動させるために走れや」と選手を後ろからジープで追い立てたりしたと言うなら論外だが、監督はテレビモニターで「二足歩行が厳しい」という致命的な状態の選手を見て、ちゃんと棄権を申し入れている。

だが、その棄権が現場の審判に伝わった時には、すでにタスキ受け渡し地点の20メートル手前に来ていたそうだ。つまり、満身創痍の選手が四つん這いで180メートル移動してしまうまで棄権の申し入れが審判に伝わらなかった、ということだ。ここでまず連絡体制の不備が指摘されている。

そして、審判は棄権の申し入れを知った後も、「あとちょっとだし」と最後まで走らせてしまったと言う。痛みに耐えて頑張る選手、という「感動」に流され、無理をさせてしまった感は否めない。

そもそも棄権の申し入れがあるなしに拘わらず、現場判断で中止させるべきはなかったのか、という声もある。今、試しに家の中を四つん這いで走ってみたが、これで200メートルはなかなかキツイ。何より見た目が痛々しい。

私の場合、無職の中年が昼間に家の中を四つん這いで走っているというただの「イタい」状態だが、走れなくなった若い選手が流血しながら四つん這いで走る姿は、十分制止すべき痛々しさだろう。実際、棄権申し入れがなくても、現場判断で走れなくなった選手を止める権限が審判にはある。

それでも懸命に走る意志を見せる選手に心打たれて止められなかったのかというと、必ずしも感動だけが理由ではないようだ。企業にとって駅伝というのは非常に重要なものであり、それをチームではなく審判の判断で止めるというのは、審判員側と企業側に大きな禍根を残すことになりかねないのだという。よって審判側は「よほど勇気がないと止められない」そうだ。

また、選手にとっても企業の名前を背負っている上、「自分がコケたら皆コケる」という駅伝のルール上、選手には大きなプレッシャーがかかっている。つまり選手も現場も「止まるに止まれないし、止めるに止められない」状況になっていたのかもしれない。

そして結果から言うと、この選手は「全治3~4か月の骨折」となった。あの四つん這いでの200メートルがなかったら、もう少し怪我が軽くなった可能性は大いにある。

このように、無理は早めに止めないと、逆に有望な選手を潰すことになりかねない。

「無茶しやがって…」という展開は漫画などに任せ、ダメな時は「俺たちの戦いはまだ始まったばかりだ」と早々に打ち切り、次のチャンスに賭けるべきだろう。

タイヤ技術でオリパラを支えよ! ブリヂストン、義足の改良に挑む

タイヤ技術でオリパラを支えよ! ブリヂストン、義足の改良に挑む

2018.11.12

オリパラの裏側には、さまざまな最新技術が隠れている

パラアスリートを支える、ブリヂストンの「タイヤ技術」って?

義足用ソールの開発に挑む研究者らに話を聞いた

東京2020年オリンピック・パラリンピック競技大会の開催まで2年を切った。自国開催ということもあり、現地で観戦しようと考えている人も多いだろう。そこで1つ提案したいのが、オリンピック・パラリンピックを「技術」の視点で見ることだ。

2018年の平昌オリンピック・パラリンピックでは世界初の5Gの実証実験サービスが行われ、開会式ではインテルがドローンによる光のパフォーマンスが行われた。このような派手なものに限らず、大会の裏にはいくつもの技術が隠れている。パラアスリートが用いる器具などがその典型的な例と言える。

そこで本稿では、「ワールドワイドパラリンピックパートナー」であるブリヂストンによる、自社技術の活用によってパラアスリートを支援する取り組み「パラアスリート技術支援プロジェクト」に注目。東京2020を支える技術の裏側に迫る。

タイヤ技術でパラアスリートを支えよ! 

パラアスリート技術支援プロジェクトは、同社のオリンピック・パラリンピックのパートナー契約締結を機に『タイヤやゴムの技術をアスリートのために活かせないか』という想いから発足したという。ではその技術で何を作っているのかというと、1つの例が義足用の「ソール」(地面に接する部分、靴底)だ。

今回話を聞いた、ブリヂストン 先端企画本部 先端技術推進部 先端技術企画推進第1ユニット 主任部員の小平美帆さん(左)とオリンピック・パラリンピックマーケティング推進部 アクティベーション推進ユニット 課長 鳥山聡子さん(右)

「当社では、パラトライアスロン選手の秦由加子さんの義足用ソールを開発しました。現在も定期的に本人と話し合いの場を設けながら、当社の技術でサポートできる部分はないか、ということを模索しています」(鳥山さん※以下、鳥山)

秦由加子 選手。1981年生まれ。千葉県出身。3歳から10歳まで水泳を習う。13歳で骨肉腫を発症し、右足の大腿部切断を余儀なくされたが、2007年に障がい者水泳チームで水泳を再開。2013年にパラトライアスロンに転向した。大腿部切断でパラトライアスロンを行っている唯一の日本人選手だ

なぜ同社がソール部分に注目するようになったかというと、「タイヤ技術との親和性の高さ」が理由だと小平さんは語る。

「もともと当社では、タイヤはもちろん、ゴルフシューズや農業機械用のゴムクローラなど、『地面と接する部分』の製品開発に強みを持っております。ソールも同じく、地面と接するモノ。そこで当社の持つ技術との親和性が高いと感じ、注目するようになりました」(小平さん※以下、小平)

さらに、ソールの素材はゴムと高分子の複合体であり、これは同社の製品でもよく使われる素材であった。タイヤ製品で培った技術を活用することで、選手をサポートできるのではないか? と考え、新ソールの開発を始めたというわけだ。

義足イメージ。ランニングシューズの底のように、特有なパターン(模様)の入っている部分が、ブリヂストンの開発したソール

「ランニングシューズを切って、義足に貼る」が当たり前?

そもそも、義足用のソール開発に力を入れている企業というのはグローバルで見ても少ない。義足を必要とする人は多くいる一方で、切断箇所や筋肉量の違いなど、個人個人によってのニーズが異なるために、高ロットでの生産ができず、なかなかビジネスとして成り立たないことが原因だという。では、秦選手の使用していたソールには具体的にどのような課題があったのか。

「これは秦さんに限らず、ほとんどのパラアスリートに当てはまることなのですが、それぞれが個人に最適化されたツールを使えていないという課題がありました。もともと、多くの種類が市場に出回っているわけではないので、パラアスリート向けの『高品質な製品』自体が少なく、モノによっては、開発されて数十年経っている”最新モデル”もあります」(鳥山)

驚くべきことに、世界大会で活躍する秦選手のような人であっても、ランニングシューズを買って、ソール部分を切り取り、義足に貼り付けて使っていたのだとか。そのように「売られているものを転用して使う」というパラアスリートは少なくないそうだ。

「当たり前ですが、ランニングシューズのソールは、義足を必要とする人向けに開発されたものではありません。地面と接触した際にかかる力は違うし、耐摩耗性が求められる箇所も異なります。秦さんは以前、雨の中でのレースで、『滑るのが怖くて、思い切って走ることができなかった』という経験をしたそうです。そうした意見を聞き、どんな状況であっても安心して走れるようなソールを開発したい、と考えるようになりました」(小平)

タイヤ開発のノウハウを詰め込んだソール開発

しかし、いくら「地面と接するモノ」だからといって、タイヤとソールで求められる技術が一緒だとは思えない。どのようにブリヂストンの持つノウハウをソール開発に適応させたのか。

「はじめはゼロからの挑戦でした。そもそも、『義足のソールに求められることって何? 』という疑問からのスタートなんです。勉強の日々でしたね。どうにか当社の技術を活用できないか、と考え、まずは走る際にかかる力を測るために、タイヤ開発に使用する測定器を使って圧力測定を行いました」(小平)

圧力測定時の様子。ランニング時、ソールへの力のかかり方がどう変化するかを調査した

ほかにも、使用した後の摩耗部分の分析などを行い、グリップ力を上げつつ摩耗を抑えられるソールはどのようなゴム材料・溝形状にすればよいかをひたすら考えたそう。

さまざまなデータから見えた課題に対して「どうブリヂストンの技術を適応させれば良いか」と考え、試行錯誤を重ねた後に、ようやくソールを開発。2017年4月、初めて秦選手に新ソールをつけた義足で走ってもらうことになった。

「私たちのソールで走ってみた秦さんには『全然違う! 』と、すぐに気に入っていただきました。その1カ月後には早速、新ソールで大会にも出場していただきました。その大会もあいにくの雨だったのですが、確実に滑りにくくなっているとのフィードバックをいただき、手応えを感じました」(小平)

小平さんや鳥山さんは、秦選手と密にコミュニケーションを取りながら、フィードバックを元にソールの改良を続けた

さまざまな領域での技術活用も視野

そのレース以来、秦選手は変わらずブリヂストンが開発したソールを使い続けている。現在のソールは2代目で、2017年に開発したモデルから、パターンと材質を変更しているそう。

しかし、いくら製品の改良を実現したと言っても、事業化につなげられなければ、同社の「パラアスリート支援」は一過性のものになってしまう。同社は今後、この取り組みをどのように続けていく予定なのか。

「秦さんとの協力によって生まれた技術が将来、当社製品のブレイクスルーにつながる可能性はあると考えています。将来的には、さまざまな領域での技術の活用も視野に入れております。ですが、何よりこの取り組みは、当社がグローバルメッセージとして掲げる『CHASE YOUR DREAM』を体現するもの。

CHASE YOUR DREAMとは、ブリヂストンが、さまざまな困難を乗り越えながら「夢に向かって挑戦し続けるすべての人を支えていく」という想いを表現したメッセージ

そのため、必ずしも『将来的なリターン』を求めてこの活動をやっている訳ではありません。私たちの取り組みが社内外に広がり、当社の『夢に向かって挑戦し続けるすべての人を支えたい』という想いに触れていただき、一緒にオリンピック・パラリンピックを応援してくれる仲間を広げていくことを目指しています」(鳥山)

「2020東京」まで1歩ずつ、2人3脚で

現在、すでに秦選手用の最新ソールは完成しているそうだが、まだまだブリヂストンの挑戦は続く。

「最新モデルは、秦さんの要望を満たし、かつさまざまなデータから考えられる問題点を解決した自信作。しかし、パラリンピックまではまだ時間があります。今後も本人のフィードバックをもとに、より改良を続けていきたいです」(小平)

パラアスリートと一緒に夢を追い続けるブリヂストン。今回紹介したのは、同社の秦選手との取り組みだけだが、それに限らず、ほかにも多くのアスリートを支援しているそうだ。

オリンピック・パラリンピックでもっとも日の目を浴びるのは選手。しかし、その周りには、選手たちを支えている多くの人たちがいる。来る2020年、パラリンピックでは、選手の義足や車椅子などにも注目し、そこに隠れた技術の背景を想像してみるのも楽しみ方の1つだ。

ブリヂストンと秦選手の挑戦をこれからも応援したい